第6話

 倉科紬が口にした「嘘がない感じがする」という言葉は、古びた工房の空気に静かに溶けていった。


 革とオイルの匂いが染みついたその空気は、桐谷陽の乾ききった心の奥底へ、するりと染み渡る。


 それは、陽が失ってから久しい種類の肯定だった。


 一点の曇りもない、偽りのない肯定。


 誰かの歓心を買うためではない。


 見栄を張るためでもない。


 ただ、目の前にあるものの本質を見抜き、ありのままを認める言葉だった。


 世界が音を立てて崩れ去ったあの日以来、陽の心は乾いた灰色の荒野と化していた。


 いま、その荒野に、清らかな一滴の水が染み渡っていくような感覚が、確かに胸の奥で脈打っていた。


「あ……」


 陽は何かを言おうとして、言葉が喉の奥でつかえた。意味をなさぬまま、閉じた唇から声は漏れない。


 「ありがとう」と伝えるべきなのか。


 それとも、「そんなことはない」と謙遜するべきなのか。


 感情が、思考の遥か前に暴走し、胸がざわつく。


 ただ、目の前で、絵の具が少しだけ付着した指先で革の端切れを愛おしそうに撫でる彼女から、陽は目が離せなかった。


「この光沢の出方、すごく素直ですね。無理に輝かせようとしていないのに、革が一番気持ちよさそうにしてる顔が見えるみたい。……ふふ、変な言い方かな?」


 紬はいたずらっぽく笑い、陽に向き直る。


 その自然体の笑顔は、レンズの向こう側を意識して作られたような完璧さとは無縁だった。ただそこに存在する光のように、陽がかつて知っていたどんな笑顔とも異質だ。


 美羽が見せていた、計算し尽くされた完璧な笑顔とは、根本的に違った。


「いえ、そんなこと……。嬉しい、です」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。喉の奥から、乾いた砂を押し出すようだった。


 胸の奥が、じわりと熱を持つ。


 それは、忘れかけていた感情の温度だった。


「俺は、ただ師匠に言われた通りに……」


「うん、きっとそうなんだと思います。でも、言われたことを言われた通りにやるのって、すごく難しいことですよ」


 紬は優しく言った。


「特に、こういう手仕事は、やる人の気持ちがそのまま表れますから」


 そう言うと、持っていた革を丁寧に作業台に戻した。


 興味深そうに工房の中を見渡す彼女の視線が、壁一面に並べられた道具の数々をなぞる。


 様々な色や厚みの革のロール。


 そして、それらが生み出す独特の静謐な空気がそこには満ちていた。


「私、美大でデザインを勉強してるんです。専攻はプロダクトデザイン。だから、こういう職人さんの工房に来ると、ワクワクしちゃって」


 彼女は自分のスケッチブックを軽く叩きながら言った。


「自分の頭の中にあるものが、こうやって確かな技術で形になっていくのを見るのが、すごく好きで。古川さんには、いつもお世話になってるんですよ。無理言って、特殊な革を分けてもらったり」


「そう、だったんですね」


 陽は相槌を打ちながら、彼女の言葉に耳を傾けていた。


 他人の評価や流行を追いかけるのではなく、ただ自分の「好き」という感情を羅針盤にして、迷いなく進んでいる。


 その姿は、陽の灰色に沈んだ視界には、ひどく鮮やかで、まぶしかった。


 かつての自分は、美羽の「好き」が自分の「好き」だと信じ込み、彼女の笑顔の中にしか自分の価値を見出せずにいた。


 その危うい土台が崩れ去った今、陽は初めて、自分自身の足で立つべき地面を探し始めていたのだ。


「桐谷君は、どうしてここに? もともと、革細工に興味があったんですか?」


 紬の屈託のない問いに、陽は一瞬言葉に詰まった。


 あの地獄のような日々を、どう説明すればいいのか。


 しかし、彼女の澄んだ瞳を見ていると、嘘をつく気にはなれなかった。


「……いえ、全然。本当に、つい最近なんです。何もかもが嫌になって、空っぽになって……」


 陽は訥々と語り始めた。


「そんな時に、ここの工房が目に入って。師匠が仕事をしている姿を見たら、なんだか、吸い寄せられるみたいに……」


 そこまで話すと、陽は自嘲気味に口元を歪めた。


 情けない理由だ、と自分でも思う。


 だが、紬は真剣な表情で頷いていた。


「そっか。わかる気がします。私も、デザインに行き詰まったり、コンペで思うような評価がもらえなかったりすると、ここに逃げてくることがありますから」


 彼女は微笑んだ。


「革の匂いを嗅いで、古川さんの仕事を見ていると、心が解き放たれるの」


「ここには、数字とか『いいね』とかじゃなくて、もっと揺るぎないものが流れている気がして」


 その言葉は、陽が漠然と感じていた工房の空気感を、的確に言語化してくれていた。


 そうだ。


 ここには、虚飾がない。


 ただ、素材と、技術と、時間が積み重なった「本物」だけが存在する。


 工房の奥から、革を削る音が止み、古川が顔を覗かせた。


「おい、紬。そいつはまだ見習いだ。あんまりおだててやると、すぐ天狗になるぞ」


 ぶっきらぼうな口調だが、その目元は優しく細められている。


「もう、古川さん! 思ったことを言っただけですよ。桐谷君、すごく筋がいいです!」


「ふん。まあ、真面目なだけが取り柄だからな。おめえさんみたいに、才能なんてもんはねえが」


 古川はそう言って工房の奥に戻っていった。


 その背中がどこか満足げに見えたのは、陽の気のせいではなかっただろう。


 陽と紬の間に、心地よい沈黙が流れる。


 陽は再び手元の革に視線を落とした。


 さっきまでと同じ革のはずなのに、今は少しだけ誇らしいものに見える。


 自分の手が、確かに何かを生み出している。


 その事実が、灰色の世界に、ほんの少しだけ色を取り戻させてくれていた。


 ふと、紬の視線が作業台の隅に留められた。


 そこに転がっていたのは、陽が練習のために、裁断で余った小さな革の切れ端を縫い合わせて作った、いびつな形のキーホルダーだった。


 縫い目はガタガタで、形も左右非対称。


 とても人に見せられるような代物ではない。


 陽にとっては、縫製の練習の残骸であり、失敗作の証だった。


「あ、これ……」


 陽が慌てて隠そうとするよりも早く、紬がそれを手に取った。


「これ、あなたが作ったの?」


 彼女はキーホルダーを手のひらの上で転がし、じっと見つめている。


 陽の顔が、かっと熱くなった。


 完璧な作品が並ぶこの工房で、自分の未熟な試作品を見られるのは、裸を見られるよりも恥ずかしい。


「すみません、それは練習で……。失敗作なんです。全然ダメで」


「ダメじゃないよ」


 紬は、陽の言葉を遮るように、きっぱりと言った。


「全然、ダメじゃない。むしろ、すごく良い」


「え……!?」


「うん。すごく良いよ。なんだか……温かい手触りがある。この縫い目、一生懸命さが伝わってくる。まっすぐになろう、まっすぐになろうって、革と対話してるみたい。不格好だけど、すごく正直な形」


 温かい。


 正直。


 その言葉が、陽の胸に深く、深く突き刺さった。脳髄に直接響くような、強い衝撃だった。


 美羽は、陽が作ったものをいつも褒めてくれた。


「すごい!」「カワイイ!」と。


 だが、その評価の基準は、常に「他人からどう見えるか」だった。


「インスタ映えするか」「友達に自慢できるか」。


 陽も、いつしかその基準に自分を合わせていた。彼女が喜ぶものを作ることが、自分の喜びだったからだ。


 だが、紬の言葉は違った。


 彼女は、作品そのものと向き合い、その内側にあるものを見ようとしてくれていた。


 作り手である陽の、不器用な誠実さごと、肯定してくれている。


 そんな評価を、陽は生まれて初めて受けた気がした。


「ねえ、桐谷君」


 紬は顔を上げて、まっすぐに陽の目を見た。


「これ、私に売ってくれないかな?」


「えっ!?」


 陽は思わず素っ頓狂な声を上げた。


 売る?


 こんな、失敗作を?


「いや、でも、これは本当にただの練習で、お金をもらえるようなものじゃ……」


「だめだよ」


 紬は、先ほどよりもさらに真剣な、少しだけ厳しいくらいの表情で言った。


「ちゃんと価値があるものには、ちゃんとお金を払わなきゃ。それは、作り手に対する敬意だもの」


 まっすぐな、それでいてどこか芯のある声音。


「じゃないと、作ったものも、作った人も、安く見られちゃう。私は、あなたのこの仕事を、安く見たくない」


 彼女はそう言うと、自分のトートバッグから、使い込まれて味の出た革の財布を取り出した。


 そして、迷いのない手つきで千円札を一枚と、数枚の百円玉を抜き取り、陽の前の作業台に置いた。


「これで、足りるかな? 古川さんの工房の小物、いつもこれくらいの値段だから」


 作業台に置かれた、現金。


 千円札と、硬貨。


 陽は、その光景をただ、呆然と見つめていた。


 お金。


 それは、SNSの世界で流通していた「いいね」やフォロワー数とは、全く異なる単位だった。


 そこには、ごまかしようのない、重く確かな価値があった。


 画面をタップするだけで無限に生産できる、軽くて空虚な承認ではない。


 誰かが自分の労働で得た、生活の糧となるものを、自分の作ったものの対価として差し出してくれている。


 その事実が、雷のように陽の全身を貫き、内側から震えがこみ上げた。


 震える指先で、そっと千円札に触れる。


 ざらりとした紙の感触。


 続いて、硬貨を一枚、つまみ上げる。


 ひんやりとした金属の重み。ずしりと、手のひらに沈む。


 その重さが、陽の心の中に直接、響き渡った。


 何万、何十万という「いいね」よりも、たったこれだけの、手のひらに収まるほどの重さの方が、どれほど確かな手応えだろう。


 顔の見えない大勢からの、無責任な賞賛ではない。


 たった一人、目の前にいる相手からの、真剣な評価と、実体のある対価。


 自分は、価値を生み出したのだ。自分のこの手で。


 誰かに媚びるためでなく、ただ無心に打ち込んだ結果が、確かに誰かの心を動かし、揺るぎない価値として認められたのだ。


 その瞬間、陽の胸の奥深くで、何かが生まれた。


 それは、燃え盛る炎のような激しいものではない。


 嵐の夜に、吹き消されまいと必死に手のひらで覆う、か弱く、しかし確かな光。


 乾ききった心の荒野に、小さな灯火がともったのだ。


「……ありがとうございます」


 陽は、涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死で堪えた。


 声を震わせながら、作業台の上のお金を手の中に包み込む。


 その温もりが、彼の凍てついていた自己肯定感を、ゆっくりと溶かし始めていた。


「ううん、こちらこそ。良いものをありがとう」


 紬は満足そうに微笑むと、受け取ったキーホルダーを、早速自分のスケッチブックが入ったトートバッグの金具に取り付けた。


 いびつな革の塊が、彼女の持ち物の一部となって、小さく揺れている。


 その光景を、陽は一生忘れないだろうと思った。


 しばらくの間、紬は自分のバッグで揺れるキーホルダーを嬉しそうに眺めていたが、やがて何かを決心したように、陽に向き直った。


「あのね、桐谷君」


 彼女は自分のスケッチブックをぱらぱらとめくり、一枚のデザイン画のページを開いて、陽に見せた。


 そこには、シンプルでありながら、どこか温かみのある曲線を持ったカードケースのデザインが描かれていた。


「私、ずっと自分のデザインを形にしてくれる人を探してたんだ。ただ正確に作るだけじゃなくて、こういう、なんて言うか……手触りのある、温かいものを作れる人を」


 紬の目は、真剣な光を宿していた。


「機械が作る完璧さとは違う、一つ一つに作り手の息遣いや温かみが宿るものが、私は作りたいの。同じものが二つとない、表情を持ったものを」


 彼女の言葉は、そのまま陽の心にも響いた。


 陽が革に触れているときに感じていた、言葉にできなかった心地よさの正体は、それだったのかもしれない。


 紬は、期待と少しの緊張を滲ませた表情で、陽を見つめた。


 その手は、まだデザイン画のページを固く握っている。


「桐谷君。もし、よかったら……」


 彼女は一度、ごくりと唾を飲み込んだ。


 そして、意を決したように、力強い笑顔を陽に向けた。


「今度の日曜日、駅前の広場でフリーマーケットがあるんだ。そこに、一緒にお店を出してみない?」


「お店……!?」


「僕が、ですか……?」


 陽の思考が、再び停止する。


 フリーマーケット。


 お店を出す。


 それは、陽が今まで生きてきた世界とは、あまりにもかけ離れた言葉だった。


 自分の作ったものを、不特定多数の人に見せて、売る。


 そんなこと、考えたこともなかった。過去の失敗が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


「私のデザインで、あなたが形にするの。このカードケースとか、他にもいくつかアイデアがあるんだ」


 紬はスケッチブックのページをさらに数枚めくった。


 そこには、ペンケースや、小さなポーチ、ブックカバーなど、彼女の独創的で、しかし実用的なデザインが溢れていた。


 どれも、陽が今学んでいる技術で作れそうなものばかりだった。


「もちろん、いきなりは無理だと思う。でも、桐谷君なら、きっとできる。あなたの作るものには、そういう力があるよ」


 彼女の言葉には、不思議な説得力があった。


 それは、根拠のない単なる励ましではない。


 陽の仕事の中に確かな価値を見出した人間だからこそ言える、信頼の言葉だった。


「きっと、あなたの作品を好きになってくれる人が、他にもたくさんいるよ。私みたいにね」


 差し伸べられた、新しい世界への扉。


 その向こう側は、陽にはまだ想像もつかない。


 また失敗するかもしれない。


 誰にも見向きもされないかもしれない。


 過去のトラウマが、心の隅で囁きかける。


 だが、彼の視界に映っているのは、午後の柔らかな光を浴びて輝く、紬の曇りのない笑顔。


 そして、彼女のバッグで誇らしげに揺れている、自分が作ったばかりの、いびつなキーホルダー。


 その小さな灯火が、彼の進むべき道を、確かに照らし始めている。


 陽は、息を飲んだ。


 彼の世界が、今、再び色を取り戻し、鮮やかに動き出そうとしていた。


 工房の奥から聞こえてくる、古川の革を削るリズミカルな音が、まるで祝福の拍手のように、陽の背中をそっと押している気がした。

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