第7話
倉科紬からフリーマーケットへの共同出店という、思いも寄らない提案を受けてから数日が過ぎ去っていた。
静謐な水面に、確かな波紋が広がるように、陽の日常は、それまで感じたことのない微かな熱を帯びていた。
大学の講義が終わると、陽は真っ直ぐに古川皮革工房へと向かう。
かつて、美羽の影を追っていた頃の、魂の抜け殻のような足取りとはまるで違う。今は、確かな目的地へ向かう強い意志が、陽の背中を力強く押し出していた。
「桐谷君、お疲れ様。これ、持ってきたよ」
工房の引き戸を開けると、先に着いていた紬が、すでにスケッチブックを広げて陽を迎えた。
彼女の指先は、いつものように絵の具や鉛筆の粉で少し汚れている。その汚れすらも、陽には彼女の内に燃える創造の炎の証のように見えた。彼女の指先から、確かに新しい価値が生まれている。その事実に、陽は静かな感動を覚えていた。
「ありがとう、倉科さん」
陽は彼女の隣に腰を下ろし、スケッチブックに描かれたいくつものデザイン画に目を走らせる。
そこには、シンプルでありながら、使う人のことを考え抜き、細部に至るまで、使う人の息遣いが聞こえてくるような、慈愛に満ちたデザインが並んでいた。
「これは二つ折りの財布。使う人が毎日触るものだから、カードポケットは必要最小限に抑えて、その分、全体の厚みをね、ぎゅっと抑えてみたの」
紬は説明する。
「手に吸い付くような肌触りになったら嬉しいな。こっちは名刺入れにもなるカードケース。急な名刺交換でもスマートに取り出せるように、ここにさりげなくカーブをつけてみたり……」
彼女は期待のこもった眼差しで陽を見た。
「どうかな、桐谷君、使い心地を想像できる?」
紬はデザインの意図を淀みなく説明する。それは、ただの線画に生命を吹き込み、機能と美を両立させる、真のデザイナーの視点だった。
「……畏敬の念を抱くほどだ。ただ美しいだけでなく、使う人の手のひらに吸い付くように、日々の生活に寄り添うように、そこまで深く、細部まで、心を砕いてデザインされている」
陽は思わず息を呑んだ。
かつて己が美羽のために作りしものは、ただ表層を模倣しただけの、魂なき残骸に過ぎなかったのだと、陽は深く思い知らされた。真の創造とは、かくも奥深いものなのか。
「そんなことないよ。私のデザインは、まだただの線画だけど、桐谷君の手が、これに命を吹き込むんだから」
紬は陽の顔を覗き込むようにして言った。その瞳には、陽の内に秘められた可能性を見抜く、揺るぎない信頼の光が宿っていた。
「たとえば、この財布の革は、どんなものが合うと思う?」
美羽との間に常に存在した、一方的に評価され、一方的に評価するという、あの不毛な関係性とは根本的に異なる。紬は、陽を対等な『作り手』として見つめていた。彼女の問いかけは、純粋な共同作業への誘いだった。
「そうだな……。このデザインなら、あまり硬すぎない、手に馴染むような革がいいかもしれない」
陽は工房の棚に並ぶ革の見本をいくつか手に取り、その感触や香りを確かめながら答える。
「使っていくうちに艶が出る、オイルレザーとか……」
いつの間にか、革の種類や特性が、まるで自分の身体の一部であるかのように自然と頭に浮かび、指先が最適な素材を選び取ろうとしていた。それは、革という素材と、今度こそ真剣に向き合うようになった証だった。
二人のやり取りを、工房の奥で煙管をふかしていた古川が、片目を細めて見ていた。
「おい、陽。そのデザインなら、縫い糸はシニューじゃねえな」
古川の声は、ぶっきらぼうながらも、確かな響きと職人の矜持を宿していた。
「もっと繊細なリネンの方が合う」
彼は言葉を続ける。
「針も一番手細いやつを使え。それからコバの処理は、いつもより一手間かけろ。フリマだろうが何だろうが、世に出すもんに手ぇ抜くんじゃねえぞ」
「はい、師匠」
陽は深く頷き、背筋を伸ばした。その日から、陽の本当の挑戦が始まった。単なる模倣ではなく、命を吹き込むための、真の職人としての挑戦が。
紬のデザインを元に型紙を起こし、銀ペンで革に線を引く。
革包丁を垂直に立て、息を止めて正確に裁断する。
菱目打ちを使い、木槌で叩いて一糸乱れぬ縫い穴を開けていく。
そして、蝋引きした麻糸を二本の針に通し、サドルステッチで一針、また一針と、着実に縫い進める。
トントン、という木槌の軽快なリズム。
シュッ、シュッ、と糸が革を通り抜ける摩擦音。
工房には、陽の集中が生み出す心地よい音だけが響いていた。
かつて、陽の世界はスマートフォンが映し出す、虚飾に満ちた画面の中に閉ざされていた。他人の承認という移ろいやすい砂の上に築かれた脆弱な自己価値、流れては消える情報の渦、そして、手の届かない虚像のきらめき。
その世界で彼は、常に他者の評価に翻弄され、自らの存在意義すら見失いかけていた無力な存在だった。
だが、今は違う。
目の前には、確かな手触りのある革がある。
自分の意志で動かす道具がある。
そして、自分の手で少しずつ形になっていく、世界に一つだけの作品がある。
革の匂いとオイルの香りに包まれ、全ての音が溶け合う。この没頭する時間だけが、陽を過去の亡霊から完全に解放してくれた。
美羽への憎しみも、自己への悲しみも、あの夜の深い後悔も、革の匂いとオイルの香りに包まれて、まるで新たな命を吹き込まれるかのように昇華されていく。陽の心は、何かに縛られることなく、ただ純粋な創造の喜びに満たされていった。
「無理しないでね。ちゃんと休んでる?」
夜遅くまで作業する陽のために、紬が温かいお茶を差し入れてくれることもあった。
「ありがとう。大丈夫。……なんて言うか、楽しいんだ。これが」
陽は顔を上げ、はにかむように笑った。
それは、美羽といた頃の、他者の期待に応えようと、相手の好みに合わせて懸命に繕い上げたような、どこか虚ろな笑顔とは、根本的に異なっていた。自分の内側から、静かに湧き上がってくる満たされた充実感に根差した、真に偽りのない、陽自身の笑顔だった。
紬は陽のその笑顔に、愛おしむように目を細めた。彼の内側から発露した光を目の当たりにし、まるで自分のことのように、彼女の胸にも温かい喜びが溢れた。
「うん。すごく、良い顔してる」
そして日曜日。フリーマーケット当日がやってきた。
駅前の広場は、朝から多くの人で賑わっていた。
手作りのアクセサリーを売る店、古着を並べる学生、自家製パンの香ばしい匂いを漂わせるワゴン。様々な夢や生活が交差する、活気に満ちた空間だった。
陽と紬は、割り当てられた小さなスペースに折り畳み式のテーブルを広げ、一枚の生成りの布を敷いた。
そして、この数日間、陽が心血を注いで作り上げた作品たちを、一つ一つ丁寧に並べていく。
二つ折りの財布が三つ。名刺入れにもなるカードケースが五つ。
どれもデザインはシンプルだが、革の持つ風合いと、陽の誠実な手仕事が静かな存在感を放っていた。
「よし。こんな感じかな」
紬が手書きの小さな看板を立てる。そこには『手しごと革小物』と、温かみのある文字が書かれていた。
「……売れるかな」
陽が、思わず不安を口にした。
周囲の店はどこも華やかで、プロのように見える。それに比べて、自分たちのブースはあまりにも地味で、ささやかだった。
道行く人々が彼らのブースを一瞥し、そして何の感情も抱かせずに通り過ぎていく。その無関心な視線は、鋭利な刃物のように陽の胸を抉った。
脳裏には、あの悪夢のような夜が鮮やかに蘇りかける。数万の匿名の顔が、彼を嘲笑う。世界中から『お前には価値がない』と宣告されたかのような、あの凍てつくような絶望と、深い無力感。息が、詰まる。
「……やっぱり、俺なんかが作ったものに、興味を持つ人なんて……」
陽の表情が曇ったのを、紬は見逃さなかった。
彼女は陽の腕を軽く叩き、まるで彼の内側に差し込む陽光のように、曇り一つない、まっすぐな笑顔を向けた。
「大丈夫。真に良いものは、ちゃんとその価値を理解してくれる人に届くから。それに、今日は売ることだけが目的じゃないでしょ?」
紬の言葉は、陽の心を覆っていた重い雲を吹き払う風のように、優しく、そして確固たる響きを持っていた。
「桐谷君の作品が、こうして誰かの目に触れる。それだけでも、すごい一歩だよ。焦らないで、このお祭り、一緒に楽しもうよ」
その力強い言葉に、陽は我に返った。
そうだ。ここは、虚像に踊らされたSNSの世界とは違う。数字や「いいね」の無責任な量で、ものの価値、ひいては人間の価値が決まる場所じゃない。
紬の言う通りだ。自分の足で立ち、自分の手で生み出したものを、こうしてこの場所に並べている。
それだけでも、数週間前のあの絶望の淵にいた自分には、夢にも思えなかった、確かな一歩なのだと、陽は強く、熱く、己に言い聞かせた。
「……うん。そうだね。ありがとう、倉科さん」
陽が再び前を向いた、その時だった。
一人の年配の女性が、ふと彼らのブースの前で足を止めた。
上品なグレーのコートを羽織り、穏やかな物腰の品の良い女性だった。彼女の視線は、テーブルの上に並べられた一つの財布に注がれていた。
陽が作った、キャメル色の革の二つ折り財布だった。
陽は、心臓が大きく跳ねるのを感じた。紬が隣で、そっと応援するように陽の背中を押す。
女性はゆっくりと財布を手に取った。陽は息を飲んで、その様子を見守る。
女性は、まるで美術品を鑑賞するかのように、財布をあらゆる角度からじっくりと眺めた。
まず、革の滑らかな手触りを確かめるように、指先でそっと撫でる。
次に、光にかざして、縫い目がどこまでも真っ直ぐに、そして均一な間隔で並んでいるのを確認する。
最後に、革の断面――コバの部分に指を滑らせ、その驚くほど滑らかで、丁寧に磨き上げられていることに気づいた。
「……とても、丁寧な仕事をなさるのね」
静かだが、心のこもった、芯のある声だった。
女性は顔を上げ、陽に向かって優しく微笑んだ。
「あ、ありがとうございます……! それは、僕が……俺が、作りました」
緊張で、言葉がたどたどしくなる。しかし、その言葉には偽りのない真摯な気持ちがこもっていた。
女性は、その陽の初々しい様子を見て、さらに笑みを深くした。
「そうなの。あなたの心が、このお財布に宿っているみたいだわ。手作りの温かみと、作り手さんの真摯な気持ちが、まっすぐに伝わってきます」
その言葉は、陽の心の奥深くまで、じんわりと染み渡った。冷え切っていた彼の心に、まるで春の陽光が差し込むように、温かい光が灯るのを感じる。
「主人へのプレゼントを探していたの。派手なブランド物より、こういう心のこもったもののほうが、あの人はきっと喜ぶわ」
女性は陽の目を見て微笑んだ。その瞳には、陽の作品への確かな評価と、作り手への敬意が込められていた。
「これ、いただけますか?」
「え……?」
陽は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「はい……! もちろんです!」
慌てて返事をすると、女性はにっこりと頷き、バッグから財布を取り出した。
「大切に使わせていただきますね。あなたの初めてのお客さんになれて、私も嬉しいわ」
そう言って、彼女は折り目のついた数枚の紙幣を、陽の手にそっと握らせた。
陽は、その紙幣を受け取った。
ずしり、と。
陽は、その手のひらに感じたあまりの「重さ」に、思わず息を呑んだ。それは、金銭的な価値だけではない。
自分の時間と、労力と、そして何よりも情熱が形を変えたもの。
SNSの画面に表示される、空虚で無責任な「いいね」の数字とは、比べるべくもない、顔の見えるたった一人の人間からの、心のこもった感謝と、揺るぎない正当な評価。
自分の手で、この現実世界に確かな「価値」を生み出したという、何物にも代えがたい証だった。
陽の胸の奥で、先日の紬との出会いによって灯った「小さな灯火」は、今、全身を焼き尽くすかのような、力強い炎となって燃え上がった。
世界は、それまでの灰色の膜が剥がれ落ちたように、鮮烈な色彩で輝き始めた。全てがクリアに見える。
これは、生きてる。
そう、心の底から、彼は感じた。
フリーマーケットは、陽だまりのような温かい雰囲気の中で幕を閉じた。
結局、あの後、若いカップルがカードケースを二つ揃いで買っていってくれた。陽にとって、それは望外の成果だった。
「お疲れ様! すごかったね、桐谷君!」
後片付けを終えた帰り道、紬が自分のことのように喜んでくれる。
「うん……。なんだか、まだ夢みたいだ」
陽は自分の手のひらを見つめた。まだ、あのお金の重みが残っているような気がした。
「そうだ、お祝いしよう!」
紬が広場の隅に出ていた屋台を指さす。甘い香りを漂わせるクレープの屋台だった。
二人はチョコバナナのクレープを一つずつ買い、近くのベンチに腰掛けた。
心地よい疲労感と、胸いっぱいの達成感。
陽は、こんなにも晴れやかな気持ちになったのは、いつ以来だろうかと思った。
美羽といた頃の、他者の承認や、誰かの笑顔に依存した脆弱な幸福とは、全く種類が異なる。
これは、自分の足で立ち、己の力で価値を生み出した者だけが味わえる、確かな自尊心に裏打ちされた、誰にも奪われることのない、自分自身の内側から湧き上がる、本物の喜びだった。
「うん。私も嬉しい。……その顔、ずっと見ていたいな」
紬は陽の顔をじっと見つめ、そう呟いた。陽は、その言葉の奥に宿る、微かな熱のようなものを感じ取り、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「本当にありがとう、倉科さん。君が誘ってくれなかったら、俺はまだ、工房の隅で革を磨いてるだけだったと思う」
陽は、これまでの人生で最も素直な、心からの感謝を口にした。その声は、かつての迷いや弱さを微塵も感じさせず、彼の内側に確かに芽生えた、揺るぎない自信と確固たる響きを宿していた。
「ううん。私の方こそだよ」
紬は笑った。
「桐谷君の作品が、誰かの手に渡る瞬間に立ち会えて、自分のデザインが形になったのを見るのと同じくらい、嬉しかった」
紬はそう言って、クレープを頬張りながら、屈託なく笑った。
夕暮れの光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
その光景を見ながら、陽も自然と笑みを浮かべていた。
心から、笑っていた。
そのあまりにも穏やかで幸せそうな二人の姿を、少し離れた場所から見つめる瞳があった。
「え、うそ。あれって桐谷じゃん」
美羽と同じ学部に所属し、いつも一緒に派手なグループで行動している女子大生の一人だった。彼女の名前は、水沢アカリといった。
アカリは、隣にいる友人の肩を肘でつつく。
「隣の子、誰? 見たことないけど……。てか、超楽しそうなんですけど」
彼女の目には、嫉妬と、他人の不幸を糧にする好奇が混じり合った、軽薄な光が浮かんでいた。他人の秘密や不幸を嗅ぎつけ、それを広めることで得られる優越感は、彼女にとって日常の刺激剤だった。
彼女はためらうことなく、ポケットからスマートフォンを取り出した。
カメラアプリを起動し、ズームを最大にする。
画面には、クレープを片手に、互いに顔を見合わせて、心からの笑顔で笑い合っている陽と紬の姿が、はっきりと捉えられた。
それは、陽が美羽に見せたことのない種類の、穏やかで満ち足りた表情だった。何かに強制された笑顔ではなく、彼の内側から溢れ出す、純粋な喜びの証だった。
カシャッ。
乾いた電子音が、広場の喧騒に紛れて小さく響いた。
アカリはすぐにLINEのアプリを開き、トークリストの中から朝倉美羽の名前を探し出す。
そして、今撮ったばかりの写真を添付した。
『美羽、見て見て! あんたの元カレの桐谷、新しい彼女と超ラブラブだったんだけど。なんか、あんたといた時より、ずーっと幸せそうに見えるのは気のせい? 振って正解だったかもねー、とか言っとくw』
悪意ともおふざけとも判別しがたい、無責任極まりないメッセージを添えて、送信ボタンをタップする。
画面に『送信しました』の文字が表示される。
その通知は、虚飾の頂点にいる美羽のもとへ、そして陽がようやく手に入れた新しい世界に、確かな亀裂を入れる最初の、小さな一石となって飛んでいった。
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