第5話

 からっぽの部屋で、桐谷陽は窓の外を眺めていた。


 美羽との思い出も、SNSアカウントも、復讐心さえも捨て去った部屋は、がらんとして、まるで息をひそめたように静まり返っている。


 その静寂は、陽の精神の虚ろそのものだった。


 何かを失った悲しみは、もう感じない。


 ただ、全てが抜け落ちてしまったような、重苦しい虚無感が、陽の全身にのしかかった。


 数日間、陽は深い虚無の淵に沈み込んでいた。まるで魂の抜けた人形のように、ただ日々の時間が無為に流れていく。


 大学の講義は頭に入らず、友人と会う気力も湧かない。


 食事は腹を満たすための作業でしかなく、眠りは浅く、何度も目が覚めた。


 しかし、その灰色の世界の中で、彼の視線を引き寄せる、ただ一つの光があった。


 窓の向こう、古びた商店街の一角に佇む、「古川皮革工房」という名の店。


 ガラス戸越しに見えるのは、作業台に向かう一人の老人の背中だった。


 午後の陽光が舞う埃をきらきらと照らし出す中で、その老人はただ黙々と、手の中にある何かと向き合っている。


 その背中は、デジタルな虚飾とは無縁の、時間の重みが凝縮された真実の塊のように、陽の目に焼き付いた。それは、彼が虚像の中で見失った「本物」が、静かに息づく姿だった。


 眺めているだけでは、何も変わらない。


 このままこの部屋で、空っぽのまま朽ちていくのか。


 それとも――。


 陽はゆっくりと立ち上がった。


 埃っぽいジーンズに、皺のついたTシャツ。今の自分には、それで十分だった。


 ギシリ、とアパートの階段が軋む。


 外に出ると、午後の生ぬるい風が頬を撫でた。


 シャッターが下りたままの店が多い、寂れた商店街。


 その風景が、今の自分の心象と重なる。


 一歩、また一歩と、陽は工房へと足を向けた。


 店の前まで来ると、中からト、ト、ト、という乾いた規則的な音が聞こえてくる。


 木槌が何かを打つ音だろうか。


 ガラス戸に手をかける。


 ひんやりとした金属の感触が、生きていることを実感させた。


 深呼吸を一つ。


 陽は、錆びついたレールを滑らせるように、重い戸をゆっくりと開いた。


 カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。


 その瞬間、陽の肺は、今まで吸い込んできた空気がいかに薄っぺらなものだったかを知らしめるように、濃密な匂いで満たされた。


 甘く、少し土臭いような革そのものの匂い。


 染料や薬品のツンとした刺激臭。


 そして、使い込まれた木とオイルが混じり合った、どこか懐かしい香り。


 それらが渾然一体となって、工房という空間を支配していた。


 店内は、お世辞にも整頓されているとは言えなかった。


 壁一面に、様々な色と厚みの革が丸められて棚に収められ、作業台の上には、用途の分からない無骨な金属の道具が所狭しと並んでいる。


 床には革の切れ端が無数に散らばり、陽の足元でカサリと音を立てた。


 デジタルな情報が一切ない世界。


 ピクセルも、通知音も、誰かの「いいね」も存在しない。


 そこにあるのは、揺るぎない質量と手触りを持つモノたちだけだった。


「……なんの用だ」


 奥から、低く、しゃがれた声が飛んできた。


 作業台の向こうから現れたのは、陽が窓から見ていた老人だった。


 歳は七十を超えているだろうか。


 深く刻まれた額の皺。


 厳しく細められた目の奥には、長年モノと向き合ってきた者だけが持つ、鋭い光が宿っている。


 分厚く、指の節くれだった手は、無数の傷と染料の色素で染まっていた。


 店主――古川は、陽の頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように一瞥した。


 その視線は、陽の服装や髪型ではなく、もっと内側の、芯の部分を見透かそうとしているようだった。


「あ……あの……」


 陽は咄嗟に言葉が出てこなかった。


 覇気のない、どこか所在なさげな若者。古川の目には、そう映ったに違いない。


 彼の眉間の皺が、一層深くなった。


「学生のバイトなら間に合ってる。それに、あんたみてえな細っこい指で、革の硬さに負けずに針を握れるもんか。すぐに音を上げるのが関の山だろうな」


 吐き捨てるような言葉に、陽の肩がびくりと震える。


 だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。


 引き下がれば、またあの虚無の部屋に戻るだけだ。


「ち、違います。俺は……その、ここで……」


 喉が渇いて、声がうまく出ない。


「自分の手で、何かをしたいんです」


 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。


 古川は、怪訝な顔で陽を見た。


 何を言っているんだ、こいつは。そんな感情が露わになっている。


「手伝うだあ?」


 古川の声には、明らかに警戒の色が宿っていた。


「お、お金は要りません。ただ、ここにいさせてください。何か、役に立てるなら……何でもします」


 陽は必死だった。


 論理的な説明などできなかった。


 ただ、この場所にいたい。


 この匂いの中に、この音の中に身を置いて、何かを自分の手で為したかった。


 その衝動だけが、彼を突き動かしていた。


 古川は腕を組み、黙り込んだ。


 工房に、木槌の音も消えた完全な沈黙が訪れる。


 老人の鋭い目が、陽の瞳の奥をじっと覗き込んでいる。


 そこにある絶望の色と、それでもなお何かを希求する、消えかかった炎のような光を、古川は見逃さなかった。


 長い、長い沈黙だった。


 陽の額に、じわりと汗が滲む。


「…………」


 やがて、古川はため息ともとれる息を一つ吐き、顎で床をしゃくった。


「……フン。なら、そこらじゅうに散らばってる革の切れ端、一つ残らず拾い集めてみろ。埃一粒たりとも残すんじゃねえぞ。それが出来たら、続きだ」


 陽は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「え……?」


「さっさとやらんか」


 ぶっきらぼうな声に促され、陽は弾かれたように「は、はい!」と返事をした。


 工房の隅に立てかけてあった箒とちりとりを手に取り、彼は夢中で床を掃き始めた。


 それから陽の日々は一変した。


 大学の講義が終わると、彼はまっすぐ工房へ向かった。


 休学届は出さなかったが、友人からの誘いは全て断り、空き時間は全て工房で過ごした。


 最初の数日間は、ひたすら掃除だった。


 床を掃き、棚の埃を払い、道具を一つ一つ丁寧に磨く。


 古川は何も言わず、ただ時折、陽の仕事ぶりを横目でちらりと見るだけだった。


 陽は文句一つ言わなかった。


 むしろ、その単純作業に救われていた。


 床に散らばる色とりどりの革の切れ端。


 それはゴミではなく、何かになるはずだったモノの痕跡だ。


 そう思うと、一つ一つが愛おしく、丁寧にちりとりで集めた。


 道具を磨けば、鈍い光を放っていた金属が、本来の輝きを取り戻す。


 自分の手から生まれた、目に見える変化。道具を磨けば輝き、革の切れ端は意味を持つ。


 SNSの「いいね」がどれほど空虚なものだったか、この一瞬の「本質的な手応え」が、何よりも雄弁に物語っていた。


 一週間が経った頃、古川は黙って陽の前に一枚の大きな革と、オイルの入った缶、そして数枚の布を置いた。


「こいつにオイルを塗り込め。ムラなく、薄く延ばせ。革が喜ぶように、優しくな」


 初めて命じられた、「本物の」仕事だった。


 陽は緊張しながら、布にオイルを少量取り、古川に言われた通りに革の表面を撫で始めた。


 ひんやりとして、乾いていた革の表面が、オイルを吸い込んでゆっくりと色を深めていく。


 鼻腔をくすぐるオイルの独特の匂い。


 指先に伝わる、しっとりとした感触。


 それは、まるで生き物の肌を労わるような、不思議な感覚だった。


 美羽を幸せにすることに自分の価値を見出していた頃。


 彼女の笑顔一つで、自分の全てが肯定されると思っていた。


 だが、それは他人に依存した、あまりにも脆い土台だった。


 今、目の前にある革は、嘘をつかない。


 丁寧にオイルを塗り込めば、正直に艶を増し、美しくなる。


 手を抜けば、それはムラとなって正直に現れる。


 そこには裏切りも、気まぐれも、誰かの評価も存在しない。


 ただ、自分の手仕事と、それに応える素材があるだけだ。


 陽は無心で手を動かし続けた。


 スマートフォンの画面をスワイプする指の動きとは全く違う、力強い抵抗と感触。


 憎しみや悲しみでいっぱいだった頭の中が、革の匂いとオイルの感触で少しずつ満たされていく。


 激しく渦巻いていた感情が、静かな湖の底に、ゆっくりと沈殿していくようだった。


「……悪くねえ」


 作業を終えた陽の背後から、古川の声がした。


 見ると、古川は陽がオイルを塗り終えた革を、満足げに眺めている。


「おめえさん、不器用そうに見えて、こういうのは向いてるのかもしれんな」


 初めての、肯定の言葉だった。


 それは、SNSで何千、何万と付く「いいね」よりも、ずっと重く、温かく陽の心に染み渡った。


 陽は何か言おうとしたが、こみ上げてくるものがあって、ただ「ありがとうございます」と頭を下げるのが精一杯だった。


 その日を境に、古川は少しずつ陽に革の扱い方を教え始めた。


 革の種類と特性、道具の名前と使い方。


 古川の言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが、その一つ一つに、長年の経験に裏打ちされた知恵と、革への深い愛情が滲んでいた。


 陽は、乾いたスポンジが水を吸うように、その全てを吸収していった。


 彼の心にあった虚ろな空間は、革の知識と、ものづくりの原始的な喜びで、少しずつ、しかし確実に満たされ始めていた。


 そんなある日の午後だった。


 陽は工房の隅にある小さな作業台で、古川から練習用にと渡されたヌメ革の端切れを、ガラス板を使って一心不乱に磨いていた。


 コバと呼ばれる革の断面を、滑らかに仕上げるための地道な作業だ。


 そこに、カラン、と軽やかなドアベルの音が響いた。


「古川さん、こんにちはー」


 明るく、澄んだ声だった。


 陽が顔を上げると、入り口に一人の女性が立っていた。


 歳は陽と同じくらいだろうか。


 流行を追うのではなく、彼女が選んだのは、洗いざらしの白いシャツと、ゆったりとしたリネンのパンツだった。


 その素朴な装いは、まるで美術館の片隅に静かに置かれた、手作りの陶器のようだった。周囲の虚飾を洗い流すかのように、彼女の自然体の雰囲気が際立っていた。


 結わえた髪からこぼれた後れ毛が、午後の光を浴びて柔らかく輝いていた。


 何より印象的だったのは、彼女の指先や爪の間に、微かに絵の具のようなものが付着していることだった。


「おお、紬ちゃんか。いらっしゃい」


 古川の顔が、陽には見せたことのない、好々爺のような柔らかい表情に変わる。


「例の、ちょっと厚めのヌメ革、入りました?」


「ああ、入ったぞ。奥にあるから見ていきな」


 彼女――紬は、「やった」と小さく声を上げると、慣れた様子で工房の奥へと進んでいった。


 陽は、自分以外の人間がいることに少し緊張し、再び手元の作業に集中しようとした。


 しばらくして、紬は大きな革を一枚抱えて戻ってきた。


 そして、陽がいる作業台の前でふと足を止めた。


「あれ……?」


 紬の視線が、陽の手元にある磨かれた端切れに注がれている。


 陽は、見られていることに気づき、びくりと動きを止めた。


「こんにちは」


 紬は、陽に人懐っこい笑みを向けた。


「あ……こんにちは」


 陽は慌てて会釈を返す。


 女性とまともに話すのは、あの記念日の夜以来だった。


「新しく入った人? 古川さんのところで働くなんて、すごい根性あるね」


 悪戯っぽく笑う彼女に、陽はどう返していいか分からず、曖昧に微笑むことしかできなかった。


 紬の視線が、再び陽が磨いていた革の端切れに戻る。


 彼女は興味深そうにそれを覗き込み、陽に尋ねた。


「これ、あなたが磨いたんですか?」


 陽がこくりと頷くと、紬は「ちょっと、見せてもらってもいい?」と言って、ごく自然にその端切れを手に取った。


 彼女は、その小さな革片を、まるで宝石でも鑑定するかのように、様々な角度から光に当てて見つめた。


 そして、指先でそっと、陽が磨き上げたコバをなぞる。


 陽は、自分の仕事が他人の目に晒されることに、言いようのない緊張を覚えていた。


 ダメ出しをされるだろうか。


 下手だと思われるだろうか。


 過去のトラウマが、一瞬だけ頭をよぎる。


 やがて、紬は顔を上げて、感心したように息を吐いた。


「すごい」


 彼女は、陽の目をまっすぐに見つめて言った。


「この子、すごく素直な表情をしてる」


 紬は、革を掌で包むように持ち、そのコバを指でそっとなぞった。


「なんだか……嘘がない感じがする」


 彼女の言葉は、まるで木槌のように、陽の心のど真ん中を打ち抜いた。


 美羽がくれた言葉は、いつも甘く、陽の耳に心地よかった。


 だが、その甘さの奥には、常に透けて見える条件があった。「もっと映えるように」「もっと皆に素敵だと思われるように」。


 あれは、陽という人間そのものではなく、陽がいることで完成する『幸せな私』という、巧妙に作り上げられた虚像を愛していただけではないのか。陽は、今になって、その苦い真実に直面していた。


 だが、今、目の前の女性が評価しているのは、陽がただ黙々と、正直に時間をかけた、この小さな革の切れ端そのものだった。


 陽の仕事の中に秘められた、純粋さと誠実さ。


 それを彼女は、一目で見抜いたのだ。


「あなたが磨いたの?」


 紬は、もう一度、今度は確信に満ちた声で尋ねた。


 その眼差しは、どこまでも澄んでいて、陽の心の奥底まで届くようだった。


 陽は、美羽といた時には感じたことのない種類の、温かく、そして力強い光に包まれているような感覚に陥った。


 言葉に詰まりながらも、彼は確かに頷いた。


 その瞬間、陽の心の中で、これまで灰色のフィルターがかかっていた世界に、新しい息吹のような、鮮やかな色が灯った。それは、まだ名付けられない温かい感情であり、深く沈み込んでいた心が、ようやく浮上し始めたことを示す、小さな確信の光だった。彼自身は、まだその意味を知る由もなかったが。

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