第4話
陽の時間の感覚は、もはや意味をなさなかった。漠然とした空白だけが、ひたすらに続いていた。
桐谷陽は、どうやって美羽のアパートの前から自分の部屋までたどり着いたのか。その記憶は、脈絡のない断片の集合に過ぎなかった。
冷たいアスファルトの感触。
割れたスマートフォンの画面に映る、自分のものではない幸福の残像。
それらが脳裏をよぎるだけで、その間の道のりは、まるで濃い霧の中を歩いたように思い出せなかった。
気づけば、陽は自室のベッドに倒れ込んでいた。それから一体、どれほどの時間が経ったのだろう。
一日か、三日か、あるいは一週間か。時の流れは、陽にとって意味をなさなかった。
カーテンは閉め切られ、部屋は昼も夜も同じ色の闇に沈んでいる。重く淀んだ空気に、無数の埃が鈍い光を反射して舞っていた。
床には脱ぎ捨てた服が散らばり、コンビニで買ったであろう食料の袋も、封を開けられないまま転がっていた。腐敗臭が、鼻腔をかすめる。
空腹は感じなかった。喉の渇きも、眠気さえも、生きるための全ての欲求は、絶望という名の分厚い壁の向こうへ押し込められ、ただの無意味な信号と化していた。
ただ、心臓だけが律儀に拍動を続け、そのたびに鈍い痛みが全身に響き渡る。まるで、生きていることを無理やり意識させるかのように。
枕元に置かれたスマートフォンだけが、唯一の光を放っていた。大学の友人からだろうか、心配するようなLINEの通知がポップアップしては消える。大学の事務室からの不在着信履歴も溜まっている。
だが、陽はそれに触れることさえできなかった。無数の連絡は、すべて遠い世界のノイズに過ぎない。耳障りな、無意味な音。
指が動くのは、たった一つのアプリを開く時だけだった。
それは呪縛だった。見てはいけない。見れば心が削られるだけだと分かっているのに、指は意思に反してインスタグラムのアイコンをタップする。
そして、検索窓に「KAI」と打ち込んでしまう。まるで何かに憑りつかれたように、指先が勝手に動いた。
画面に映し出されたのは、あまりにも鮮烈な、陽の見る地獄そのものだった。
あの日、陽の目の前で産声を上げた『KAI&MIU』のカップルチャンネルは、恐ろしい勢いで膨張していた。
陽が最後に見た時、数千だったフォロワーは、翌日には10万を超え、三日目の今日には20万人に達しようとしていた。
彼らの投稿は、陽が失った世界のすべてを、より鮮やかに、より高価に塗り替えたものだった。
『オープン記念! 高級フレンチでディナーしてきた!』
そう銘打たれた動画。陽が記念日のために予約したレストランよりも、遥かに格上の店のようだ。
美羽は、陽が一度も見たことのない、肩を大胆に出した黒いドレスを着ていた。首元には、もちろんKAIから贈られたネックレスが、下品なまでに輝いている。
『サプライズでペアウォッチ買ってもらった! 一生大切にする!』
そんなキャプション付きの写真。有名ブランドのショッパーを手に、美羽は満面の笑みでKAIの腕に寄り添っている。
陽が手作りしたブレスレットを「世界で一番素敵」と言った唇が、今や無数の「いいね」のために、完璧に計算された弧を描いている。
動画の中の美羽は、陽が知っている美羽ではなかった。陽と二人きりの時に見せる、少し気の抜けた、ありのままの笑顔ではない。
カメラの角度、光の当たり方、指先の仕草に至るまで、全てが計算され尽くした「商品」としての笑顔。不特定多数の視線を浴びることを前提とした、完璧にパッケージングされた「カワイイ」だった。
KAIは、その完璧な商品の隣で、絶対的な支配者のように振る舞っていた。コメント欄は、熱狂的な賛辞で埋め尽くされている。
『お似合いすぎる! 理想のカップル!』
『美羽ちゃん、前の彼氏といた時よりずっと輝いてる!』
『KAI様、マジで男の中の男!』
そして、陽の心をナイフのように抉る言葉が、必ず紛れ込んでいる。
『前の彼氏可哀想w』
『乗り換え大成功じゃんw』
『地味な男じゃ美羽ちゃんは満たせないってことねw』
嘲笑。
憐憫。
好奇。
それらの言葉が、陽の存在価値そのものを否定していく。
美羽を幸せにすること。それが自分の喜びであり、価値だった。その前提が、根底から覆された。
いや、もとからそんなものは幻想で、自分はただ、彼女の華やかな人生の踏み台に過ぎなかったのだ。
心の底から、どす黒い憎しみがマグマのように煮えたぎり、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
許せない。
許せるはずがない。
陽は、震える指でスマートフォンのメモ帳アプリを開いた。
復讐してやる。あいつらの嘘を、偽りを、すべて世に曝け出してやる。
『朝倉美羽の元彼です。すべてを話します』
タイトルを打ち込む。指先に力がこもる。怒りが、指先に宿る。
『彼女は、僕との記念日の夜、「体調が悪い」と嘘をついて、KAIという男とホテルにいました。僕が手作りしたプレゼントは、ブランド品を貰った途端に捨てられました。彼女が僕に言っていた「陽と私だけの特別」という言葉も、すべて嘘でした』
指が、怒りに任せて言葉を紡いでいく。次から次へと言葉が溢れ出す。喫茶店での会話。公園での誓い。KAIからのDM。中庭での光景。
それらすべてを書き連ね、彼らがいかに人を欺き、踏みつけにして現在の地位を築いたのかを告発しようとした。
だが、書き進めるうちに、陽の指は次第に重くなっていった。
これを、どこに投稿する?
SNSか?
投稿すれば、一瞬は注目を浴びるだろう。彼らのアンチが飛びつき、炎上騒ぎになるかもしれない。
だが、その先にあるものは何だ?
人々は、ゴシップとしてそれを消費するだけだ。陽の痛みも、苦しみも、すべては匿名の野次馬たちの暇つぶしのネタになる。
「可哀想な元カレ」として同情され、あるいは「未練がましい負け犬」と嘲笑される。
そして何より、そんなことをすれば、自分はいつまでも彼らと同じ土俵に立ち続けることになる。彼らの動向に一喜一憂し、世間の反応を気にし、自分の感情を彼らに支配され続ける。
復讐とは、相手を自分の人生の中心に据え続ける行為だ。
その事実に気づいた瞬間、陽の身体から、すとん、と力が抜けた。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れるような感覚。虚ろな目が天井を見つめる。
嫌だ。
もう、あいつらのことで、自分の心を1ミリだって動かされたくない。
あいつらが笑おうが、泣こうが、成功しようが、破滅しようが、どうでもいい。
自分の人生から、完全に消し去ってしまいたい。
陽は、打ち込んでいた暴露文をすべて削除した。画面が白く、空っぽになった。その空白が、まるで陽自身の内面を映し出すかのように、どこまでも広がっていた。
そして、インスタグラムを開き、KAIのアカウントページへ飛んだ。ためらうことなく、「ブロックする」のボタンを押した。次に、美羽のアカウントも。
画面から、二人の存在が消える。
それだけでは足りなかった。まだ、陽の魂にこびりつく何かが残っている。
陽は設定画面から、自身のアカウント管理ページを開いた。美羽と繋がるためだけに始めたインスタグラム。友人たちとの何気ないやり取りが残るX。そこには、ささやかだが、確かに陽の生きてきた証が記録されていた。
陽は、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
アカウントの削除ボタンを押す。確認画面が表示される。
『本当にアカウントを削除しますか? この操作は取り消せません』
陽は、迷わず「はい」をタップした。
これでいい。
次に、スマートフォンの設定を開き、LINE以外の、すべてのアプリの通知をオフにした。世界からの情報流入が途絶え、スマートフォンは、ただの静かなガラス板と化した。まるで、陽の心臓が止まったかのように、静まり返る。
デジタルな繋がりを断ち切ると、今度は物理的な繋がりが、部屋のあちこちで陽を苛んだ。
陽は、ゆっくりとベッドから起き上がった。足が、鉛のように重い。部屋の隅に追いやられたはずの匂いが、再び鼻腔を刺激する。
まず、本棚の上に置かれた写真立てを手に取った。去年の夏、二人で行った海で撮った写真だ。日焼けした肌で、少し照れくさそうに笑う自分と、その隣で屈託なく笑う美羽。
陽は、写真立てからその写真を引き抜き、音もなく二つに引き裂いた。白い破片が、床に舞い落ちる。
机の引き出しを開ける。一番奥に、手紙の束がしまってあった。誕生日やクリスマスに美羽がくれた、可愛らしい便箋に綴られた言葉の数々。「陽の優しいところが好き」「ずっと一緒にいようね」。
その一通一通を、陽は読まずにゴミ袋へと放り込んでいく。インクの匂いさえ、吐き気を催す。
クローゼットの隅には、美羽が置いていった折り畳み傘があった。急な雨の日に、相合傘で帰った日の名残だ。それも、ゴミ袋へ。
部屋の隅々から、「朝倉美羽」という存在の痕跡を、一つ、また一つと消していく。それは、自身の皮膚を剥ぎ取るかのような、耐えがたい痛みを伴う作業だった。皮膚がめくり上がるような、生々しい鈍痛が続く。
そして、最後に残ったのが、机の上に無造作に置かれていた、あの革のブレスレットだった。
陽が、何週間もかけて、不慣れな手つきで縫い上げたもの。美羽が「世界で一番素敵」と、その時は本心から言ってくれたように見えた、二人の絆の象徴。
陽はそれを手に取った。自分の指の跡が、革に微かに残っている。これを捨てれば、本当にすべてが終わる。そんな気がした。
一瞬、手が止まる。心臓が軋む。喉の奥が締め付けられる。
だが、陽は脳裏に焼き付いた光景を思い出した。このブレスレットが無造作にバッグの奥に押し込まれ、代わりにKAIのネックレスが彼女の首で輝いていた、あの中庭の光景を。
陽は、固く目を閉じ、ブレスレットをゴミ袋の中に投げ入れた。カサリ、と乾いた音がして、それは他のガラクタの中に沈んだ。もう二度と見つけることのできない闇の中へ。
作業を終えた時、陽は空っぽの部屋の真ん中に立ち尽くしていた。思い出の品々を詰め込んだ黒いゴミ袋が、まるで墓標のように部屋の隅に鎮座している。
物理的にも、精神的にも、彼の世界はがらんどうになった。
どれくらいの時間が経っただろうか。陽は、ふと、数日ぶりにカーテンに手をかけた。重く、冷たい布地。
ゆっくりと、それを開く。
午後の、少し傾きかけた陽光が、埃の舞う部屋に差し込んできて、陽は思わず目を細めた。長らく闇の中にいた目に、光が突き刺さる。痛みを伴う光。
ぼんやりと、窓の外を眺める。
陽のアパートは、古びた商店街に面していた。シャッターが下りたままの店も多い、活気のない通り。いつもは気にも留めない、見慣れた風景だ。
だが、その日は違った。
陽の視線は、なぜか、通りの向かいの一角に釘付けになった。まるで何かに呼び寄せられるかのように。
ペンキの剥げかかった、古風な看板を掲げた店。
『古川皮革工房』
そのガラス戸の向こうに、人影が見えた。
白髪頭に、猫背の老人。細められた目には深い皺が刻まれている。作業台の上で分厚い革と向き合い、一心不乱に何かを作っている。手にした木槌を、リズミカルに振り下ろしている。
ト、ト、ト、と、かすかに音が聞こえてくるような気さえした。規則正しく、しかし力強い音。
その横顔は、ひどく真剣だった。そこには、誰かに見せるための虚飾も、承認を求める媚びもない。ただ、目の前の素材と、自分の手と、道具だけが存在する世界。
陽がこの数日間、見続けてきたデジタルな虚像の世界とは、あまりにもかけ離れた光景だった。そこには、確かな質量と、温かい手触りのある「現実」が、確かに息づいていた。
陽は、その光景から目が離せなかった。
憎しみでも、悲しみでもない。絶望の底で乾ききっていたはずの陽の心に、静かに、しかし確かに、微かな光が染み渡っていくのを感じた。それは、まだ名前のつけられない、温かい感情の萌芽だった。
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