第14話「その一枚の札に、願いを込めて」
午後五時、いつもの音楽室に、札の音が響く。
――パシン。
静寂を切り裂くように、美しい音が跳ねる。
「はいっ!」
掛け声とともに、心菜の指が鋭く札を払った。その瞬間、一瞬だけ愛花の顔がぴくりと動く。目の前に並ぶ札。だが、取ったのは心菜だった。
「……また、取られた……」
小さく呟く愛花の声は、誰にも届かない。
地区予選まで、残り三週間。かるた部の雰囲気は、日に日に熱を帯びていた。
心菜の読みの速度はさらに研ぎ澄まされ、桜は試合形式の練習で誰一人として手を抜かなかった。美沙希も、タイムを計りながら的確にアドバイスを送る。
それでも、愛花は焦っていた。
(私だけ、取り残されてる……?)
入部して数週間。基本の「いろは札」は覚えたが、いざ対戦となると、体が動かない。心で分かっていても、手が出ない。
それでも――
「いいよ、愛花さん。ちゃんと、反応してた」
練習のあと、心菜は微笑んで言った。
「まだ手が出なくても、“気づけた”なら、それは一歩前進だよ」
心菜の言葉は、優しかった。でも、その優しさに甘えたくない自分もいた。
「……ありがとう」
愛花はそう返すと、汗ばんだ額をハンカチで拭いた。
その横で、桜が読み手の札を一枚一枚集めていた。彼女は愛花に声をかける。
「ねえ、愛花ちゃん」
「はい?」
「“悔しい”って思ったなら、それを大事にしてね」
「……え?」
「それ、次に進むための一番の原動力だから」
桜の声は穏やかだけれど、どこか鋭さがあった。昔の自分を思い出しているような、そんな眼差しだった。
その夜、心菜は家の勉強机で、愛用の百人一首札を手に取っていた。
(私が、この札を好きになったのは……)
机の隅には、小学生のころに描いた一枚のイラスト札がある。色鉛筆で描かれた、お姫様の姿。
「“あら、お姫様”って言ってたなぁ、あの頃……」
懐かしい坊主めくりの記憶。みんなで笑って、騒いで、坊主が出るたびに盛り上がった。――楽しかった。ただ、楽しいだけじゃなくて、どこか胸があたたかくなるような。
心菜は札を胸に当てて、目を閉じる。
(あの頃の“好き”を、忘れたくない)
競技かるたにのめり込むほど、勝ち負けが重くなる。でも――自分がこの世界に入った理由は、“札が好き”という純粋な気持ちだった。
だからこそ、伝えたい。
負けても、悔しくても、それでも「この世界に来てよかった」と思ってもらえるように。
一週間後。
「今日は、本番形式でやるぞー!」
顧問の伏見先生が、白板に大きく「練習試合」と書いた。
「地区予選までは、あとわずか! 今日は二戦やるぞ! 全力出していこー!」
部員たちが応えるように、机と椅子を運び出す。静かに、けれど燃えるように。
札を並べる指の動きが、いつもより緊張している。
心菜と愛花が向き合う形で組まれた一戦。
札を挟んで、目が合う。
「がんばろうね、愛花さん」
「うん、絶対負けないよ、心菜ちゃん!」
強気な返しに、心菜は少し驚き、そして笑った。
――この一戦が、きっとお互いにとっての「大きな一歩」になる。
札を並べ終えると、伏見先生の合図で練習試合が始まった。
「はい、読み手、準備して!」
緊張感が部室全体を包み込む。
読み手が最初の句を読み上げる。
「ちはやぶる…」
瞬間、二人の指が同時に札に伸びる。
だが、心菜の方がわずかに速かった。
「やった…!」
心菜の小さな歓声に、愛花は悔しそうに眉をしかめる。
しかし、その悔しさが、愛花の心に火をつける。
(まだまだ、私も負けてられない!)
次の読みが始まる。
「わがそでは…」
愛花の指が一瞬迷いかけたが、すぐに動いた。
そして――
「取った!」
部屋に響いた愛花の声に、周囲がどよめく。
「おお、愛花さん、いいぞ!」
美沙希が拍手し、桜も満足そうにうなずいた。
その一枚は、愛花の自信となり、次第に彼女の動きは滑らかに、素早くなっていった。
心菜も、そんな愛花の成長を見て、胸が熱くなる。
(私だけじゃない。みんな、同じように頑張っているんだ)
試合は熱戦のまま続き、時間いっぱいまで札を取り合った。
終了の合図が鳴ると、伏見先生が皆に声をかける。
「今日はみんな、よく頑張った! この調子で、地区予選に向けて一緒に成長しよう!」
部室に、爽やかな達成感が満ちた。
心菜は愛花に近づき、笑顔で言った。
「これからも、一緒に頑張ろうね」
愛花も力強くうなずいた。
「うん、絶対に諦めない!」
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