第10話「この道を、選んだからには」
放課後の教室に、札を叩く音が響く。
「はいっ!」
乾いた音とともに、愛花の手が札を跳ね飛ばした。
「いい反応よ、園原さん!」
伏見先生が手元のノートにペンを走らせながら、微笑む。
「ありがとうございます……!」
息を整えながら、愛花は少し汗ばんだ額を拭った。最近の彼女の目つきは変わってきている。以前のような戸惑いは消え、代わりに射るようなまなざしが、札の一枚一枚に注がれていた。
「園原さん、すごい。昨日より明らかに速くなってる」
心菜が隣から声をかける。
「えへへ……なんかね、楽しくなってきたんだ。悔しいのもあるけど、それ以上にさ」
愛花は自分でも驚くほど自然に、そう言葉が出たことに驚いていた。つい数週間前まで、かるたに“楽しさ”なんて感じられなかったのに。気がつけば、取りたい、勝ちたい、負けたくない――そんな気持ちが、心の奥底から湧いてきていた。
「地区大会の日程、決まりました」
伏見先生がみんなの前に立つ。
「来月の第1日曜日です。出場メンバーは来週決定しますが、基本的にこのメンバーで行く予定。体調管理、準備をしっかりして臨んでくださいね」
ざわり、と空気が動く。
「ついに、本番か……」
実結がぼそりと呟く。
「うん……楽しみだね」
心菜が微笑みながら返す。
でも、実結の表情はどこか浮かない。練習中はあんなに明るく盛り上げていたのに、今は静かに視線を落としていた。
その夜、愛花は自室で机に向かっていた。
目の前には、先日心菜から借りた百人一首の本。
「“ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川”……」
声に出して読みながら、ふと笑みがこぼれる。
すると、背後からノックの音。
「愛花、ちょっといい?」
母が顔を出した。手にはお茶の湯のみ。
「ありがとう。……ねえ、お母さん」
「なあに?」
「私さ、かるた、もっと続けたいって思ってる。……多分、ちゃんと好きになってきたんだ」
母は少し驚いたように目を丸くして、それから、ふっと優しく微笑んだ。
「それなら、頑張ってみなさい。自分でそう思えるものがあるって、素敵なことよ」
その言葉に、愛花は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
一方その頃――
実結は自室で、古いアルバムをめくっていた。
幼いころ、かるた教室で笑っていた写真。その中の一人、今は全国でも名を知られる選手になったという話を、最近聞いたばかりだった。
「……私は、まだあの頃のままかな」
呟いたその声は、ほんのわずかに震えていた。
けれど、胸元にはいつもと同じ、あの札があった。
「“わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の”……。私、あきらめてないよ」
誰に言うでもなく、ただ自分自身に向けて、そう呟いた。
***
翌朝。
校門前で、心菜が空を見上げていると、足音がふたつ。
「おはよー!」
「……あ、心菜ちゃん、おはよう」
「実結ちゃん、愛花ちゃん。おはよう」
三人の視線が合う。一瞬の静寂のあと――自然と笑みがこぼれた。
「今日も、頑張ろうか」
「うん」
「当たり前でしょ!」
響き合う声。その音が、静かに重なっていく。
まだ見ぬ先の未来へ、彼女たちは今日も一歩ずつ進んでいく。
この道を、選んだからには。
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