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 旅から戻り、青宮の自分の居室に戻るとナイティスはほっと息をついた。いつの間にか、ここが最も心安らぐ自分の居場所となっていた。夜はシグレスの居室で過ごすことが常だったが、昼間は壁一面を書架にした、この自分の部屋にいることが多い。

 妃の居室の美しい壁面装飾を隠してしまう書架に、侍女たちは呆れた様子だったが、ナイティスは気に留めず好きな本を置くことにした。今はシグレスもついて部屋に入り、書架を見回している。

 調度ちょうども質素なものにとどめ、シグレスが幼い頃使っていたという小さな机と椅子をもらい、書き物をするときはそれを使っている。部屋も机の上も殺風景に思えるほど片付いていて、机の端に美しい寄木細工の文箱と一冊の白い本があった。

 ナイティスは大事そうに白い本を手にとった。白い革の表紙に、金銀の草花の模様があしらってある。題名はない。シグレスが手を伸ばして本を奪った。

「駄目です! 中は読まないでください!」

 ナイティスは叫んだ。シグレスは面白そうな顔でナイティスを見た。

「俺に読まれては困るようなことが書いてあるのか?」

「日記は人に読ませるものではありません。めおとの間でも読まないのが礼儀でございます」

「そうか? 日記は、後の世に自分の言い分を正当化するために書くのだと思っていたが」

「私の日記は違います。日々思ったことを書いているのです」

「俺の悪口か?」

「そうかもしれません」

 シグレスはむっと眉をひそめ、ナイティスは微笑みながら、白い本――美しく製本された日記帖を取り戻した。シグレスの母である青宮妃レイユスからの結婚祝いの品は、純白の日記帖と銀細工のペン、銀のインク壺の入ったこの文箱で、ナイティスは何よりも嬉しく思い、それを大切にしていた。

 以前、レイユスの居室に招かれたとき、ナイティスは彫刻を施した木製の立派な机に並んでいる、白から少しずつ色を深めて青になる装幀でずらりと並ぶ本に目を奪われた。それが王の元に嫁いだときからの日記帖だと知って、ナイティスはその趣味の良さを賞賛した。レイユスはそれを覚えていてくれたのだった。

 ――白から色を深めていき、レイユス様のように美しく年を重ねていくことができますように。

 日記には日々の出来事を綴っている。シグレスの悪口を書いたことはない。仕事のこと、王宮の行事のこと、たまにシグレスのことを書くときも、式典でのシグレスがいかに美しく見えたか、王との話し合いの様子が立派であったなど、実は読まれても困るような内容ではない。ただ自分が恥ずかしいので、彼には読ませないだけだ。

「明日は図書館での仕事があるのか?」

 シグレスの言葉にナイティスは首肯した。旅の疲れも今日のうちに早く休めば癒えるだろう。

「俺は御前会議の予定が中止になったと聞いた。ふたりで遠乗りにでも出かけないか」

 シグレスと遠乗りというのは魅力的な話だった。しかし明日は図書館の定例の会議がある。会議上でナイティスが報告する事項もある。

「申し訳ありません。私の方は休めません」

「お前が出なければならない会議なのか」

 うなずくナイティスに、シグレスはいささか不満そうに唇を尖らせた。ナイティスの居室の寝台に長靴を履いたまま寝転がり、敷き布に金色の髪が乱れて広がっている。行儀は悪いが魅力的な姿だった。

 ナイティスは近寄り、シグレスのそばに腰を下ろした。シグレスが腕を伸ばして腰を抱こうとする。ナイティスは体を離そうとしたが、体を起こしてきたシグレスに捕まった。一緒に寝台に倒される。

「まだ日が高いです。誰かに見られてしまいます」

 ナイティスはあらがって体を引き抜こうとした。その背を強く抱きしめて、シグレスは離そうとしない。

「お前は……妃になってからも堅苦しいな。旅先では隣の部屋が気になるというし、僧院では清らかに過ごさなくてはだめだというし。婚礼後初めての旅だというのに、全く何もなかったぞ」

 ナイティスは白い頬にうっすらと血の色を上らせた。

「もうすぐ侍女が茶を持ってくるでしょう」

「それにも構わず王子は妃とむつみ合った――という物語を読んだことがあるぞ」

「シグレス様はそのような放埒ほうらつな王子ではないはず」

 シグレスは声を立てて笑った。扉が叩かれ、ナイティスの言ったとおり、茶の支度を持った侍女たちが入ってきた。扉が開いた瞬間に、ナイティスは渾身の力を込めてシグレスから離れて起き上がっていたが、乱れた姿で横たわったまま微笑むシグレスを見れば、何をしていたか一目瞭然だろう。ナイティスは頬が赤くなったままだった。

 小さな卓上に茶の支度が整えられた。ナイティスの前にはシグレスと同じ茶碗の他に、もう一つ小さな茶碗が置かれているのを、シグレスがめざとく見つけた。

「薬湯を飲んでいるのか」

 ナイティスはうなずいた。シグレスが眉を顰める。

「俺がいるから抑える必要などないだろう」

 薬湯は種器の発情を抑えるものだった。発情期の激しい衝動と熱を抑えるため、ナイティスは発情の兆候を感じると服用していた。

「明日は図書館の仕事がありますから」

 しかしシグレスは納得しない。自分の前の茶に手をつけず、鋭く碧い目を光らせた。

「お前は前回の発情期のときも、ヒラス派の行事のために抑えていたではないか」

「はい、でもそれは――」

「仕事に行く前に、俺と心ゆくまで契ればいいだけだ」

 シグレスはさらりと言ってのけたが、ナイティスは周りの侍女の目を気にして俯いた。

 種器の発情期の衝動は、誰かと交接し気が十分に達することにより治まるという。達するまでは発情の衝動が続き、貴種を誘う匂いが止まらないのだ。ナイティスはシグレスの妃になったとき以来、薬湯を用いて発情を抑えていた。

「そんなに発情に抵抗があるものなのか?」

 シグレスの問いかけにナイティスは無言だった。発情したときの自分の制御できない衝動が怖い。体の中心が快感とともに熱く溶け出してゆく――あの淫らなうねりに襲われることに、ナイティスにはいまだに抵抗があった。

 罪悪感と言った方がしっくりくるだろうか。最も戒律の厳しいヒラス派僧院で成年まで生きてきたナイティスにとって、自分で自分の淫らさを許しがたく思ってしまうのだった。

 貴種であるシグレスは、自分の衝動をどう思うのだろうか。ナイティスはちらりとシグレスの顔を盗み見ようとして、目が合ってしまった。

「俺は発情に惹かれる獣になることに、抵抗はないぞ」

 ナイティスの思考を読んだかのようだった。ナイティスは思わず呟いた。

「私の心の中を読まないでください」

 シグレスは小さく笑った。

「そんなたやすく人の心が読めるわけがない」

「そんな……私の考えていることを、すぐお当てになったのに」

「僧侶でいるときならともかく、今のお前が何を恐れているのかは、俺にはよく分からん」

「……お茶が冷めてしまいます」

 ナイティスは俯いて茶碗を手にした。シグレスと話しているだけで、体がほてってくるようで、急いで薬湯を飲み下した。苦い味が喉を下り、ほっと息をついたとき、シグレスが残念そうな表情で自分を見ていることに気がついた。

「……申し訳ありません」

 妃として自分は間違っているのだろうか。ナイティスはまだ僧侶だったときに、王子であるシグレスの前でよくそうしたように、体を縮こまらせた。少なくとも夫の心を喜ばせてはいない。

「よい。気にするな。気が乗らぬのに発情を強いるなど、とんでもないことだ」

 シグレスがいつもの明朗な口調で言っても、ナイティスの心は晴れなかった。自分の頑なさには気がついているが、それを我からほどくことができず、シグレスに気を遣わせてしまう。年下の夫の包容力に甘えてばかりだ。

 ――つ、次の発情の期にはちゃんと、シグレス様にお応えできるよう、は、発情をお、抑えず、ちゃんと――。

「だから、無理しなくてよいと言っている」

 また考えを読み取られたことに気づき、ナイティスは思わず手で顔を覆った。

「か、顔に出ているのでしょうか!?」

「かなりはっきり出ていた。今はな」

 シグレスは指を伸ばし、ナイティスの覆った手からのぞく、形の良い眉の間に触れて微笑んだ。

「眉間にすごい皺が寄っている」

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