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 王宮図書館までの道を歩くナイティスの少し後に、白騎士クランの颯爽とした姿がある。ずば抜けた長身で姿勢が良く、白い騎士装束の似合う白皙の容貌の端麗さに、すれ違う女性たちが熱い眼差しを送っている。

 彼女たちがナイティスの方に向ける視線には羨望とともにとげとげしい雰囲気、特に高位の貴族の貴婦人たちからは蔑みすら感じ取れるような気がする。

「私が種器だからということと、仕事をしていることは、どちらが侮蔑の対象なのでしょうか」

 ナイティスはついクランに尋ねてしまった。優しいクランには、心のうちを吐露してしまうことがある。クランは不審そうに眉根を寄せた。

「誰がナイティス様を蔑んでいるのでしょうか」

「誰というか……宮廷の方々です」

 クランは首を横に振った。

「ナイティス様の仕事を、誰が蔑むでしょうか。王の許しを得ているというのに」

「種器の生まれだから――」

「レイユス様も種器でいらっしゃいます」

 シグレスの母、青宮妃のレイユスもナイティスと同じ、種器の生まれの者だった。

「では私の出自の方なのでしょうか」

 王子の妃であるのに、身分卑しいどころか、孤児として僧院に預けられたので、出身も氏族も分からない。シグレスの妃になる前に有力貴族から激しい反対の声が上がったことを、ナイティスはいまだに忘れられないでいた。

「そのようなことに拘るものは、自分と剣を交えよ、とシグレス様はおっしゃっておられました。自分の妃が種器であり出自が僧院であることに、何ひとつ恥ずべきことはないと」

 初めて聞くシグレスの話に、ナイティスは立ち止まった。シグレスが自分のことをそこまで言ってくれている。胸に痛いほど熱いものがこみあげてきた。鋭い眼差しで辺りを睥睨へいげいし、きっぱりと語るシグレスの姿が目に浮かんだ。

「クラン殿」

「どうかクランとお呼びください。ケディンと同じく、ただのクランと」

 ナイティスの呼びかけを、クランは静かに訂正した。

「クラン、教えてください。私がいることで、本当にシグレス様のお立場が悪くなられることはないでしょうか?」

 クランの澄んだ褐色の瞳は、ナイティスに向けられながらも、遠くを見るようだった。

「その昔、王の元へ嫁がれたレイユス様から、同じように問いかけられたことがあります。種器であり、耳も言葉も不自由なあの方は自分が王の相手にふさわしいか、ずっとお悩みだったのです。私はそのときはまだ少年だったので、なんとお答えしたら良いか、一晩中眠れず考えたものでした」

「そのときはなんと答えたのですか?」

 一心に見上げるナイティスに、クランは優しい笑みを返した。

「眠れないまま、私は朝、たまたま庭で王にお目にかかったのです。私は思わず王に問いかけてしまいました」

「王はどのようなお返事を?」

「ふたりの絆以外に、何も求めるものはないと。お互いに必要としている、それだけで十分ではないかとおっしゃられました。その言葉をレイユス様にお伝えしたとき、心から安堵なさったようなお顔になられました」

 聞いていたナイティスは深いため息をついた。王の簡素で強い言葉に感銘を受けた。

「ナイティス様のお立場が悪くなることなど、ありますまい。隣に立つシグレス様を、あなたが強い心で愛し支えさえすれば。時が経てば、みなに伝わるのです。王とレイユス様をお見守りするうちに分かりました」

 乾いた土に降り注ぐ水のように、クランの言葉はナイティスの心にしみ通った。ナイティスは図書館の入り口に立って、クランを振り返った。胸が熱くなって、うまく言葉が出てこない。

「瑠璃の書の司でありシグレス様の妃であり、シグレス様の唯一の御方として、本日もお勤めください」

 クランは頭を下げて去った。ナイティスは昂然と頭を上げて王宮図書館に入って行った。石造りの大きな建物の中の空気はひんやりとしている。大きな閲覧室は朝の光が天窓から入り込んですがすがしかった。

 ナイティスはまだ利用者の入っていない大きな机のところに行った。書の司の見習いたちが掃除に取りかかっている。ナイティスの姿を見て、見習いたちは一斉に頭を下げた。ナイティスも挨拶を返しながら、大きな木製の机に触れてみた。

 厚い木の板で作られたどっしりした机、背に彫刻が施された座り心地の良い木の椅子。書の司の見習いだった頃、ナイティスも毎朝この机と椅子を磨いていた。

 ――掃除を終えると、返却された本を書架に戻す。書架に戻すとき、今まで読んだことのない本の背を眺めるのが、私は大好きだった。

 ナイティスは直接書架に本を戻したり、利用者に接することができる貸し出し机に座りたかったが、シグレスと婚礼を挙げてからは表に出るのを控えている。王子の妃が学生と気軽に接することは、さすがに王も許さず、また王宮図書館の方も遠慮した。

 ナイティスは利用者からの質問に答えたり、調べ物をすることが最も好きだったので、それもできないのは残念だった。司書長であるフィグレンと相談し、ナイティスは王族に必要な本や御前会議のための資料を集める仕事をしていた。

 ――図書館で働けるだけでもよしとしよう。

 ナイティスの知っている王家の妃の暮らしは王宮の中だけに限られている。物見遊山としての外出はあっても、自分が学んだり働いたりする場所を王宮以外に持っている妃はいない。王宮での公式行事と儀礼的なつきあい、それ以外の時間を一体、他の妃はどのように過ごしているのだろう。

『読書、そして御前会議が私の一番の楽しみ』

 シグレスの母である青宮妃レイユスに尋ねたときには、耳と言葉が不自由なレイユスは、いつも身につけている手帖にそう綴ってみせた。

『貴方には図書館の仕事があってうらやましい』

 そのときのレイユスの少し寂しげな笑顔がナイティスの脳裏をよぎった。王宮というところは贅沢な暮らしぶりが何不自由なく見えながらも、日常のひとつひとつのことが窮屈に縛られている。

 それにレイユスは隣国オーランの出身で身体に障碍もあり、宴などでの様子を見ても親しく交流する人は少ない様子だった。レイユスが心を許せる相手は夫である王と息子のシグレス、そして白騎士のクランや侍女頭デイラしかいないとナイティスは見てとっていた。

 図書館を開ける時間になり、ナイティスは奥の自分の部屋に行く途中に、司書長のフィグレンの部屋に寄った。

「ナイティス様、やはりミューリス伯の蔵書が売り立てになるそうです」

 フィグレンはナイティスを見るなり、挨拶もそこそこに売り立てについて話し始めた。ナイティスは博学の貴族として、唯一無二の稀覯書の山を築いたというミューリス伯のことは噂に聞いていた。

 無類の愛書家であったミューリス伯はすでにこの世の人ではなく、跡を継いだ養子は蔵書に何の関心もない。蒐集された書物は彼によって売り払われてしまうのでは、という話が先日の選書の会議で出たばかりだった。

「フィグレン殿、すべてを売りに出すのでしょうか?」

 ナイティスも目を輝かせた。噂に聞く稀覯書の全貌を見ることができるのだろうか。図書館に収めたいと思うものの、貴族の中でも富裕なミューリス伯が生涯をかけて集めた書であり、王宮図書館の限られた通常予算だけでは購入できそうにない、と予算を管理する書の司は言っていた。

「すべての蔵書が売り立てに出ていても、王宮に特別予算を申請しなければ、とても購入はできないでしょう」

 フィグレンからの知らせに心躍ったものの、通常の図書館の予算では購入が厳しいと分かり、ナイティスはため息をついた。

 フィグレンと予算の申請について打ち合わせ、自分の部屋に戻ってからもナイティスはミューリス伯の蔵書について考えていた。

 博士を雇って編纂していたという歴史学の書物はぜひ入手したい。編纂されたものだけでなく、そのために広く集めていた歴史書もある。優れた絵師による動植物の図像の本が揃っている博物学の叢書は、王立大学の授業に役立つだろう。今までちらりと耳にしたものだけでも、珍しい書物が数えきれないほど多くあるのだ。

 ――欲しい本がありすぎて困る。すべて欲しいけれど、分割しての購入は可能だろうか。

 夕方になってクランが迎えに来ても、ナイティスはミューリス伯の本のことが頭にあった。クランはミューリス伯のことを覚えていて、苦笑しながら話してくれた。

「本のことならどんな小さなことでも覚えてくださるのですが、人の顔は覚えられないという御方でした。公務は早々に跡継ぎに譲られ、本の蒐集と研究に没頭されておられました。同じ本好きのシグレス様には、親身になってお話をされておられましたね」

 ミューリス伯の蔵書は動物学、本草学など、シグレスの興味と重なる部分が多い。祖父と孫ほど年の離れたふたりがどんな会話をしたのか、ナイティスは興味を惹かれた。

「ミューリス伯か。本自慢の激しい御仁だったな。当時の俺がまだ十にも満たぬ子どもであっても、得々と本の内容や収集について自慢していた」

 晩餐をとりながら尋ねてみると、シグレスは懐かしげな顔になった。

「お前とは話が合わないだろうな。大事な本は絶対に人には貸さない、そういう愛書家だ。王子である俺にも決して貸そうとせず、読みたかったら自分から来るようにと言っていた。仕方なく俺の方から閲覧しに行ったものだ。自分の大事な蔵書を図書館に置いて、いろんな人間に貸すなど、とんでもないと思うだろう」

「亡くなった後、その蔵書が売り立てられることを知ったら……」

「化けてでるかもしれないな。王宮図書館に置いたら、夜な夜な本の周りに年老いた男の人影が現れるかもしれない」

 ナイティスは顔を強ばらせた。冗談にしろ怪談は嫌いなのだ。それに怖がる自分のことを、シグレスが面白がるのも嫌だ。そんなナイティスの様子に気づかないのか、シグレスは怪談の続きはせず、真顔になって問いかけた。

「図書館で購入を考えているのか?」

「はい。でもおそらくは予算が足りないので、すべて手に入れるためには特別な申請が必要かと」

「お前の腕の見せどころだな。ぜひとも王宮の皆々を納得させるような、達意の要求文書を書くがいい」

「私はこういう仕事よりは、図書館の利用者の前に出る方が好きなのですが――」

 ナイティスが言いかけると、シグレスが軽く睨んだ。

「学生の前に出ることは許さない」

「図書館の利用なのですから、そんな不心得者はいないと思いますが」

「お前の姿を見に来る人間が、むやみに図書館に集まるのが嫌だ」

「わざわざ私の姿など、見に来る人がいるのでしょうか」

「お前は知らないのか。お前が図書館で働くようになってから、入館者や貸し出し数が妙に増えたという話を聞いたぞ」

 ナイティスは狼狽えた。

「それは私がいるためではないと思います。図書館では、入館者を増やすために、新しい本を買ったり、稀覯書の展示を行ったりしていたのですから」

「俺と結婚してお前が表に出なくなってからは、また入館者の数が元に戻ったそうだ。フィグレンががっかりしていたぞ。館内が落ち着いた雰囲気に戻って、俺は嬉しいがな」

「……」

 結婚してから気がついたことだが、非の打ち所のないと言われる王子シグレスも、嫉妬深いところがいただけない。嫉妬のあまり、自分のことについては事実を歪めて、大げさに受け取ることがあるとナイティスは思った。

「私は図書館の仕事の中で、利用者の質問のために調べものをするのが一番好きなのです」

 利用者と向き合って話をし、質問の本質を聞き出し、それについての答えを本の中に探し、その内容を提示する。ナイティスは数多くの文献の中から答えを見つけ出すことが得意であったし、最も好きな仕事だった。問題を解決して利用者の喜ぶ顔が見たい。

「では、俺の質問に答えてくれ」

 シグレスはいきなり侍女に紙とペンを持ってこさせると、勢いよく文字を書き付けだした。驚くナイティスを尻目に、あっという間に十個ほどの文章を書いて、ナイティスに突きつけた。

「これについて調べてほしい。これから俺も王の御前会議に出ることになるから、いろいろ知っておきたいのだ」

 成年を迎えた王子として、シグレスは王の御前会議の一員として、毎回、出席することになる。政務や財務など国を取り仕切り、ソディアの国の舵をとっていく大事な会議だ。ナイティスは渡された紙にざっと目を通した。

 ソディアと他国との交易について、輸出入の主な品目やその量、金額を調べるなど、交易や産業についての問いが並んでおり、その場で考えられたとは思えない内容であり、量だった。

「いつか調べてみようと思っていたが、これまでできなかったのだ。お前ならすぐ調べられるだろう」

 シグレスは涼しい顔をしていた。今の仕事がもの足りないならやってみろ、というシグレスの自分に対する挑戦を感じる。そして、お前ならできるだろうという信頼も。ナイティスの中にふつふつとやる気が湧いてきた。

「すぐにというわけには参りませんが」

 ナイティスは笑みを浮かべた。

「できる限り早くお応えいたします」.

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