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 ナイティスが朝の庭にたたずんでいると、領主の娘が近づいてきた。昨夜の着飾った姿とは打って変わって、青一色の簡素なドレスだった。そのドレスの方が彼女の若さを引き立てて魅力的に見えた。どこかぎこちなく挨拶をする娘に、ナイティスは微笑みかけた。

「昨夜も素敵でしたが、今日の衣装もよくお似合いです」

 娘はぱっと顔を紅潮させた。

「これはお妃様を真似てみたんです」

 え? と小さな声を上げたナイティスの目を、娘はまっすぐ見つめてきた。

「黒騎士様の想われている御方は、お妃様なのでしょう?」

 この娘の心をとらえたのはケディンの方だったのか、とナイティスははっとすると同時に、この娘にケディンの想いを悟られていることに驚いた。

「なぜそう思うのでしょうか」

「黒騎士様はお妃様しか見ておられません」

 ナイティスは肯定も否定もできなかった。娘は挑みかけるような眼差しを隠しもせず、きっぱりと言った。

「私は王宮に上がりたいと、昨夜、父にお願いしました。青宮せいぐうにお仕えしたいと思っております」

 それはケディンのそばにいたいからなのだろうか。昨夜会ったばかりの男のために、そこまでしようとする娘の実行力に、ナイティスは驚いた。そして自分に対する彼女の眼差しに、敵意に近いものを感じて戸惑った。そこへ男が近づいてきた。

「お嬢様、お父上がお呼びです」

 娘はナイティスに一礼して走るように去っていった。ナイティスはほっと息をつき、寄ってきた男の顔を見て、思わず駆け寄った。

「エギ殿、お元気そうで、ほんとに、本当にうれしいです」

 ナイティスの言葉に、エギの顔に複雑な感情がよぎるのが見えた。喜びと哀しみと懐かしさ……だが、エギは意志の力でそれを押し込めたかのように静かな笑顔になった。

「私もナイティス様にお目にかかれて、こんなにうれしいことはございません」

 かつて親しく言葉を交わした人々から、妃としてうやうやしい言葉遣いで語られることに、ナイティスはいまだに慣れなかった。相手との距離を感じ、胸が痛くなるときがある。しかし懐かしいイクシの谷へ向かうこの旅は、これからもそれが続くのだ。ナイティスは黙って胸の痛みをこらえた。

「ご伴侶もつつがなくお過ごしでしょうか」

「はい、子どもも生まれました」

 エギが伴侶に選んだ、ほっそりした種器の少年のことをナイティスは思い浮かべた。あのときの少年の敵意に満ちた眼差しが、さきほどの娘に重なった。

「それはおめでとうございます」

 笑みを浮かべるナイティスを見るエギの顔が、ふと苦しそうにゆがんだ。何か言いたげに唇を開く、と後ろから聞き慣れた声がした。

「ナイティス様、シグレス様がお目覚めです」

 クランは快活な声をかけて近づき、エギの姿を見て不審そうに眉を上げた。エギが何を言おうとしているのか、胸が騒いでいたナイティスは、慌てて一礼してからクランの方へ向かった。歩き出してから振り返ると、こちらを見つめて立ち尽くすエギの姿があった。

「あの御方は古いお知り合いなのですか」

 クランの問いにナイティスはうなずいた。

「イクシの谷の僧院にいた頃から知っているのです」

 その後、エギとは直接言葉を交わすことはなく、城主一同に見送られるときも、深々と礼をする彼からは感情は読み取れなかった。胸に残る棘のような痛みとともに、ナイティスは立ち去った。


   ***


 懐かしいイクシの谷の僧院が見えたとき、ナイティスは思わず馬車の窓から指さして叫んだ。

「シグレス様、あれがイクシの僧院です」

 シグレスも身を乗り出すようにナイティスが示す方向を見た。灰色の石造りの簡素な僧院が近づくと、ナイティスは目の奥が熱くなった。

「私はこの僧院の門の前にうち捨てられておりました。そのまま僧院に拾っていただき、ずっとここしか知らずに育ったのです」

「それでお前は世間知らずなのだな」

 確かに世間の常識には欠けるかもしれないが、僧院で育てられたことをナイティスは恥じる気持ちはなかった。シグレスの言葉に少しむっとして振り返ると、あおい目が微笑わらって自分を見つめていた。

「そうです。墨染めの衣を着て祈り働く人たちに育てられ、私はずっとその世界しか知りませんでした」

「お前はそれを誇りにするがいい」

 シグレスの口調にはからかいはなかった。

「俺の妃は戒律の厳しい僧院で育ち、祈りと読書の日々を過ごし、どんな高貴な姫君にも負けぬ高い教養と品格が身に備わっているという評判だ」

 ナイティスは頬を赤く染めた。ただ僧院に暮らしてきただけで、妃になるために育てられた方々とは身につけた知識の方向が異なるのだ。それを言おうとするとシグレスは笑って遮った。

「そういう人間でないと俺は選ばない。そう言っておくと、ほかの妃候補を薦められることがないので、俺は気が楽なのだ」

 そうは言っても……とナイティスは考える。第三王子であっても、聡明で落ち着いた人柄のシグレスに期待する人間は多い。シグレスと絆を結んでおきたいがために、自分の娘をめあわせたいと願う貴族がいるのだろう。

 今は断っているのだろうが、シグレスがほかに妃をめとることになったら……ナイティスはそうなったときの自分を想像したくはなかった。

「また余計なことを考えているのだろう? 顔が曇っている」

 シグレスの声にはっと顔を上げた。

「俺の妃はお前だけだと言っているだろうが」

「わ、私は何も言っておりません」

「言わなくても、お前が考えていることはすぐ分かる」

 話をしているうちに、馬車が止まった。イクシの僧院に着いたのだ。

 シグレスに手を取られながら降りたナイティスを、どよめきが包んだ。僧院中の僧侶と近辺の村人が集まっている。ナイティスは大きく目を見張って辺りを見回し、深く一礼した。

 見慣れた懐かしい顔が並ぶ。書の司、薬種の司、作務の司、老いた僧も若い僧も、まだあどけない見習い僧も。僧院へ向かうふたりを、村の人々が驚きと感激をあらわにしながら見送った。

 ナイティスは久しぶりに老いても威厳に満ちた僧院長の前に立つと、身の引き締まる思いだった。しかし僧院長もほかの者たちと同じく、丁寧にナイティスに頭を下げた。

「顔をお上げください、僧院長様」

 ナイティスは慌てて言った。

「このような姿でお目にかかるのは恥ずかしいのですが」

「何をおっしゃる。ご立派になられた。イクシの僧院を出たことが今日につながったのじゃ」

 僧院長の皺深い顔の、いつも鋭い目も今日は柔和だった。

「僧院長殿にはナイティスが世話になったと聞いている。私からも礼を言う」

 僧院長はシグレスの言葉を受け、眩しげに彼を見やった。

「このような誉れの日を迎えるとは、妃殿下を送り出した日には想像もつきませなんだ」

 あの日は粗末な布袋ひとつ持って、僧院を出たのだった。まるで大海に放り出されたかのような心許こころもとなさに不安でいっぱいだったことを、ナイティスは昨日のことのように思い出していた。

 ナイティスは大事に身の回りから離さず持ってきた「青の書」の写本を、僧院長、書の司や僧院の主立った人々の前に広げた。周りから賛嘆の声が上がる。

「青の書」はナイティスが原本の書体を丁寧に一言一句違わぬように写し、文頭の飾り文字の装飾は、絵師が細密に描き、彩色師が上質の顔料で色を付けた。シグレスが成年の儀の旅に出ている間、ナイティスが図書館の中でずっと書き続けたものだった。

「我らが僧院には何よりのものでございます。王家の御物ぎょぶつの『青の書』そのままの姿で、御本を読むことができるとは」

 書の司が感極まったような声を上げた。

「ナイティス……妃殿下と図書館の整理をしながら、当館の『青の書』がすり切れて読めなくなったことを嘆いていたのを、よくぞ覚えててくださったものです」

「そのときに書の司殿にお約束しましたから。写本を作って持って帰りますと」

 ナイティスは言いながら、ふと熱いものがこみ上げて目が潤んだ。シグレスと共にある日々を悔やむことはないが、この静かな美しい僧院でひっそりと書を読み祈る日々は、自分の人生からは永遠に失われたのだ。

 ナイティスは、僧院長と書の司に断って、僧院の図書館の貴重書室に残る、聖ヒラスの手稿の断片を借りて帰ることにした。この僧院から盗まれた原本は、今、王宮図書館の所蔵になっている。ここに残るのは、その原本から千切れて残った部分なのだ。

 王宮図書館の写本師が現在、写しをつくっているところなので、ナイティスは、最後にこの部分にある聖ヒラスの署名も、このとおりに写してもらおうと思った。理由を話すと、書の司は書が収められていた箱ごと丁寧に包んで、ナイティスに渡してくれた。

 ヒラス派僧たちと慎ましく一夜歓談し、シグレスとナイティスは僧院を離れた。また僧侶と村人たちが見送ってくれた。

「イクシの谷というのは村全体が世俗を離れたようなところなのだな」

 谷を離れる馬車の中で、シグレスの言葉にナイティスはうなずいた。

「初めて谷を出て、あまりに自分が何も知らないことを知り、途方に暮れたことを思い出します」

「そうなのか? お前はそんなふうには見えなかったが。やってきてすぐに、堂々と物語を読みふけっている面白い僧がいると大学で評判になっていた」

 それは……とナイティスは絶句した。そんなことはない。おおっぴらに物語に耽溺していたつもりはない。

「は、初めてあんなにたくさんの物語を見て、興奮が止まらなかったからです……」

「しかも最も戒律の厳しいヒラス派僧にも関わらず、恋物語が大好きで」 

「人が何を読んでいるか、その内容に立ち入ってはいけないと、何度も申し上げております」

 瑠璃の書の司は厳しいな、とシグレスはナイティスを抱き寄せた。

「シグレス様はすぐそうやって、話を終わらせようとなさいます」

 シグレスはその言葉を聞かず、軽く睨むナイティスの唇をそっと口づけでふさいで黙らせた。

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