第2話 赤子の瞳が見る世界
最初に触れたのは、冷たい空気だった。
胸の奥に薄い痛みが走り、肺に入り込む冷気が自分のものとは思えず、どこか借り物のようにぎこちない。
そして、かすかな声が漏れた――そう感じた。
だが、その音が本当に自分の喉から出たものなのかは判別できない。
声帯の震えがあまりに小さく、高い。
視界はぼやけ、光と影の境界さえ曖昧だった。
耳に届く音も、形を持たない。
しかし、温かい腕に抱き上げられたとき――理解だけは、なぜか鮮やかに訪れた。
──今、自分は生まれたのだ。
なぜ生きているのか。
どこなのか。
身体の年齢すら分からない。
それでも、意識は途切れていない。
死んだはずの自分が、思考を続けているという事実だけが、確実な足場だった。
(……状況を観測する。まずはそこからだ)
彼は、抱きかかえる女性を見上げる。
視界は曖昧でも、輪郭だけは分かる。
銀色の髪が光を受けて揺れ、長い睫毛の隙間にある瞳は深くやわらかい色をしていた。
その眼差しには、疑いようもない慈しみがあった。
(……母、なのだろうか)
そう思った瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
安堵と、戸惑いと、かすかな期待が混ざりあう。
女性の腕は温かく、肌からはほのかな香りがした。
驚くほど柔らかく、壊れ物を扱うように抱かれている。
周囲を見ようと首を傾ける――が、赤子の身体は思うように動かない。
それでも視界の隅に、梁の組み方、壁の材質、家具の意匠がうっすらと映り込む。
緻密な織りの布。
宝石をあしらった指輪。
彫りの深い調度品。
この部屋が、裕福で高い身分の者の空間であることは、輪郭だけでも分かった。
(……断定はできないが、貧しい環境ではなさそうだ)
そのときだった。
空気に、妙な揺らぎを感じた。
温度変化とも、湿度とも違う。
かすかな振動のようであり、皮膚の内側を撫でるようでもある。
言葉にしづらい。
だが、確かにある。
(……これは……何だ?)
まるで空間全体に、微細な流れが走っているようだった。
物理的な力ではない。
しかし、感知はできる。
(ただの錯覚……ではない。安定した……癖のようなものがある)
完全に理解できるはずもない。
それでも、科学者の直感だけが囁いた。
(……未知だ。しかし、無秩序ではない。
観測できるなら――いつか解明できるかもしれない)
断言はできない。
ただ、そんな気配があった。
視線を動かす。
部屋の隅に控える数名の使用人らしき女性たちが、銀髪の女性へ向かって微かに声を落とした。
「…… ᚾᛚᚨ・ᚱᛁ…ᛒᚩᛋᚺᚨ… 」
「…… ᛋᚨᛁᚠ…ᛞᚨᚾᛗᚨ…ᚾᛖᛁᚱᚨ… 」
どれも、耳には届く。
だが、意味としては結ばれない。
音の断片が、ただ流れ込んでくるだけだった。
区切りも、強弱もあるはずなのに、それを言葉として掴めない。
それでも――
声の調子は、硬くない。
視線は鋭さを帯びていない。
わずかに息を潜めるような、慎重さと、抑えた熱のようなものがある。
理解はできない。
けれど、拒まれてはいない。
(……少なくとも、敵意ではない)
それ以上のことは分からない。
期待なのか、驚きなのか、あるいは単なる興味なのか――
判断する材料が、まだ足りない。
ただ、視線が集まっている。
それだけは、確かだった。
考えが形になる前に、腕の中の女性が、わずかに息を吸った。
耳元で、柔らかな声がふっと揺れる。
意味の分からない響き――
まるで短い祈りのような、歌のような、ひとつの文の気配。
「…… ᚱᛁᛟᚾ……」
言葉の正体を捉えるより早く、彼女の指先がそっと彼の小さな手を包んだ。
そして――
光が生まれた。
火ではない。
熱でもない。
それなのに、確かにそこに灯りが存在していた。
淡く脈動し、揺らめき、
触れている部分だけがじんわりと温度を帯びていく。
だが、その温かさは皮膚だけで止まらない。
――骨へ、血へ、もっと深い層へと染み込んでいく。
(……なんだ、これは……)
説明できない。
だが、ただの温もりではない。
作用している。
外部刺激が内部に影響を与える感覚。
生体の応答か、あるいは未知の物理。
分類も名前も持たないが、確かに存在する現象。
(現象……?
それとも、生体と空間の相互作用……?
わからない……わからないけれど……)
知りたい。
そんな衝動だけが強く、はっきりと胸に灯った。
それは、死の直前で感じて以来、久しく忘れていた感情だった。
未知を前にしたときの、あの胸を震わせる探求心。
(この世界には……何かある)
光は優しく揺れ、彼の小さな指を包み込む。
彼は目を細め、呼吸を整えながら、胸の奥で静かに思った。
(……観測を始めよう。
この世界の理を、ひとつずつ……探っていく)
それは産声ではなかった。
だが、確かに第一声だった。
銀色の瞳がゆっくりと開く。
こうして――異世界に、生まれたばかりの赤子の姿を借りたひとりの探究者が、目を覚ました。
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