第3話 名を与えられし者

 生まれてすぐの数日は、世界がぼやけた絵のようにしか見えなかった。

 光はにじみ、音は断片で、言葉は意味を結ばない。

 だが、時間が経つにつれて、彼の内側で何かが結びつき始めていた。


 赤子の脳は未発達だが、そのぶん柔らかい。

 可塑性かそせいが高く、外界からの刺激を吸い込むように受け入れる。

 そこへ、前世で培われた言語処理の回路──概念の整理や音のパターン認識が重なる。


 その相互作用は、彼自身が驚くほどの速度で世界を理解させていった。


(この世界の言語……規則性はある。音の配置、語尾の変化……認識できる)


 まだ完全ではない。

 だが、音の羅列が意味の候補をまとい始めていた。


 母──リオネラと呼ばれる銀髪の女性は、毎日短い言葉で彼に語りかけてくれた。

 ただのあやし言葉のようでいて、そこには穏やかな音程と一定のリズムがあった。

 何度も繰り返し耳にするうち、それはひとつの基準となった。


(この音は慈しみ……これは呼びかけ……これは安らぎ)


 意味を推測し、文脈に当てはめ、また修正する。

 科学者としての思考が赤子の脳に溶け込み、日に日に理解が形になっていった。


 


 そうして数週間が過ぎたころには、使用人たちの会話の一部も聞き取れるようになっていた。


「坊ちゃま、今日のお召し物を……」

「奥様は本当にお喜びで……旦那様にも似ていらして……」


 単語の断片が、もはやただの音ではない。

 誰を呼び、何を語り、どんな感情が込められているか──ぼんやりとでも読み取れる。


(……やはり、僕は特別視されているのか)


 理由は分からない。

 だが、彼らの声音の熱に、期待や畏れのようなものが含まれているのは感じ取れた。


 


 そんな彼の理解がもう一段進んだのは、母が再びそっと抱き上げた日だった。


「……もうすぐ、あなたに名が与えられます」


 その言葉は、もう明確に理解できた。

 名が与えられる──この世界の儀式のひとつなのだろう。


(名前……この世界での僕の識別子が決まるのか)


 しかし、それだけではない予感があった。

 この母は、名をただの記号ではなく、として与えるように思えた。


 その推測は、儀式の場に連れてこられた瞬間、確信へ変わる。




 ◇ ◇ ◇




 天井は高く、そこから降り注ぐ柔らかな光が白い大理石の床を淡く照らしていた。

 尖った窓から差し込む光は、部屋全体をほんのりと温め、静かな礼拝堂のような雰囲気をつくり出している。


 壁には金の線で描かれた文様が流れ、ところどころに嵌められた青い瑠璃が微かな光を返した。

 燭台の炎がゆらぎ、その明かりが天井の装飾をやわらかく揺らめかせる。


 甘く香る香の匂いが空気に溶け、厳かな空間に穏やかな温度を添えていた。

 その香りは強すぎず、胸の奥をくすぐるように静かで、儀式の始まりをそっと告げているかのようだった。


 その荘厳な空間の中心を、母リオネラがゆっくりと進む。

 腕の中に抱かれた彼は、動けないながらも、その動作の全てが儀式そのものであると理解した。


 リオネラは、威厳を誇るのではなく、ただ静かに、祈るように歩む。

 踏みしめる足音は大理石に吸い込まれ、わずかな衣擦れの音だけが、しんとした空間に淡く響いた。


 祭壇の前に立つと、使用人たちは自然と姿勢を正し、呼吸すら浅くした。

 空気の密度がわずかに変わる。

 始まる──そんな共通認識が、儀式の場に満ちていく。


 リオネラは赤子である彼を胸元に抱き直し、ゆっくりと息を吸った。

 琥珀色の瞳に光が宿り、その光は静かに揺れながら、どこか決意の色を帯びていく。


「……この子に、名を授けます」


 その声音は澄みきっていた。

 ただ言葉を発するのではなく、世界そのものに向けて宣言しているような響きだった。


(これは形式ではない……だ。

 この家に、この世界に、僕という個が受け入れられるという、根源的な宣言)


 使用人たちは身じろぎもせず、その瞬間を迎える準備をしていた。

 まだ名を持たぬ赤子は、その緊張の密度を確かに感じ取っていた。


 リオネラは祭壇に向き直り、そっと唇を開く。


「ヴァルディエル家の子として。

 未来を歩む者として。

 真なる火を継ぎ、道を照らす光となるよう──」


 一語一語が、空気を震わせる。

 その振動が彼の胸へ、骨へ、まるで直接染み込むように届いていく。


(……これは祈りであり、願いであり、僕という存在のを描くものだ)


 そして──


「名を……ユリウスとします」


 その言葉が発せられた瞬間、胸の中心で、何かがふわりと温度を帯びた。


 理解ではなかった。

 気づきでもない。


 ──


 本当に、そんな感覚だった。


 ユリウスという音が、自分の中で席を得て、そこにあった空白へ自然と溶け込んでいく。


(ユリウス……これが、僕の名……)


 名はただの識別子ではない。

 音が宿す温度、母の声色、願いの響き──

 それらすべてが重なり、ひとつの意味として胸に刻まれていく。


 呼ばれた瞬間、世界が少しだけ位置を変えた。

 自分という存在が、この世界という巨大な構造の中でひとつの座標としてしたような感覚。


 ただ観測するだけの転生者でも、物理を追求するだけの研究者でもなく。


 ──この世界で息をする、たったひとりの人間として。


 名を与えられた瞬間、その事実が静かに、しかし確かに胸に灯った。




 儀式が終わり、静かな余韻が部屋を満たしていたそのとき――

 遠くで衣擦れの音がし、控えていた侍女が小さく身を正した。


「……旦那様がお見えです」


 その一言だけで、空気がわずかに震えた。

 まるで部屋そのものが姿勢を正したかのように、緊張が静かに満ちていく。


 次の瞬間、重い扉がゆっくりと開いた。

 軋む音すら堂々としている。


 黒髪に銀の筋を混じらせ、鋭さを湛えた男が一歩、また一歩と部屋へ入ってきた。

 背は高く、歩みは揺るがず、外套の影すら威圧感を帯びている。


 アリオス──。


 彼は誰にも視線を向けず、ただ一直線に赤子である彼へ歩み寄った。

 リオネラが抱きかかえるその小さな存在に、鋭い視線がそっと落とされる。


 怒気でも、愛情でもない。

 そこに宿っていたのは、ただ純粋な評価だった。


 品定めをするように……いや、もっと正確には、「将来性」を見極める眼だ。


(……生まれたばかりの子に向ける視線じゃないな)


 しかし、不快ではない。

 この男の中では、これが最大限の関心なのだと不思議と理解できた。


 アリオスはほんのわずか――眉を、気づくか気づかぬかの範囲で動かした。

 そして、低く、重く、抑揚のない声で言う。


「…………悪くない」


 褒め言葉ではない。

 期待の表明でもない。

 ただ、彼という存在を認めたという宣言。


 それだけを残し、アリオスは踵を返して部屋を出ていった。

 扉が閉じる音が、部屋の静寂に深く沈む。


(初対面の赤子に向ける感想じゃない。……だが、妙に納得もできる)


 彼の中で、父という存在がひとつの観測対象として輪郭を持った瞬間だった。


 その横で、リオネラは言葉もなく、しかし確かな温度をともなって彼を抱き寄せた。

 父の冷たい評価とは対照的な、柔らかく、深い抱擁。


 その腕の中にいると――

 外界のすべての雑音が遠ざかり、世界が静かに満ちていくようだった。




 ◇ ◇ ◇




 その夜。

 室内は灯火が落とされ、わずかな残り香だけが静かに漂っていた。

 柔らかな寝台に横たわった彼は、母リオネラの腕の中で小さな身体を包まれていた。


 胸元に頬を寄せると、微かな体温と、規則正しい呼吸の振動が伝わる。

 その温もりは、ただの体熱ではなく、心の深いところにまで届いてくるようだった。

 世界のどこにも自分の居場所がなかった前世とは違い、今は確かに「守られている」と思えた。


 まぶたが重くなり、意識がゆるやかに沈んでいく。

 しかし、思考は消えない。幼い身体に似つかわしくないほど静かで澄んだ思考が、胸の奥でひっそりと刻まれていた。


(名前が与えられた……ユリウスという輪郭が、世界の中に置かれた。

 言葉も分かり始め、この世界の構造が少しずつ見え始めた。

 ならば──ここはもう、ただの観測対象ではない)


 心がふっと揺れる。

 母の腕の温かさに包まれるほどに、その震えは強くなっていった。


(この世界を、解き明かしたい。

 そして……守る理由も、できてしまった)


 それは理屈ではなく、静かに芽生えた願いだった。

 母の鼓動が耳元を満たし、身体が小さな眠りへと沈んでいくその一瞬まで、彼の中にはたしかな意志が灯っていた。


 やがて、まどろみの向こうへ滑り落ちるように、意識がやわらかく途切れる。


 こうして――赤子の姿をした探究者は、この世界でとして生きる第一歩を踏み出したのだった。

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