Re:Physis──異世界に転生した物理博士の魔術改革
式部 夜未
第一章:転生せし理論、運命を紡ぐ出逢い
第1話 死を超えて愛を知るために
白い蛍光灯の光が、夜の研究室に冷ややかに降り注いでいた。
壁には剥がれかけのポスターとホワイトボード。机の上はコーヒーの紙コップと、びっしりと数式で埋め尽くされたノートで埋まっている。
そこにひとりの男がいた。
三十路を目前にした体格も顔立ちも平凡な青年。しかし、その背中には歳月が刻んだ疲労と、微かな諦念が滲んでいる。
彼は机に向かい、ノートに執拗なまでの筆致でペンを走らせていた。
震える指、乾いた唇、深い隈。肉体は限界を迎えつつあったが、その瞳だけはなお鋭く、燃えるように数式を追っていた。
──思考すること、それが彼の生存そのものだった。
だが理解者はほとんどいない。資金も研究時間も削られ続け、成果は顧みられない。
それでも彼は、愚直なまでに数式と格闘し続けた。
幼いころからそうだった。
他人と交わるよりも、数式と対話する方がずっと楽だった。
理解されずとも構わなかった。
──ただ、時折、夜更けにふと胸をよぎることがある。
自分は誰かに、名を呼ばれたことがあっただろうか。
肩を並べ、笑い合い、ただ傍にいてくれた人間が──いたことがあっただろうか。
……ない。
論文は、世界に残るかもしれない。
だが、自分という人間の“記憶”は、果たして誰の中に残るのだろう。
ノートには自分の署名ばかりが積み重なっていた。
けれどその名を呼んでくれる声は、どこにもなかった。
壁際の時計が午前四時を告げた瞬間、ペンを握る手が止まる。
胸の奥に、鉛のような重さが落ちた。
「……っ」
息が詰まる。
視界が揺れ、世界が遠ざかる。
手元の数式が、溶けるように霞んでいった。
男は机にしがみつくように崩れ落ちた。
音は小さく、誰も気づかない。
この時間、研究棟に残っているのは彼だけだった。
床の冷たいタイルが頬を打つ。
手も脚も重く、自分のものではないようだ。
呼吸は浅く、意識は沈んでいく。
閉じゆく瞼の刹那、彼の胸にひとつの想いがよぎった。
(……誰かに、愛されたかったな)
誰でもいい。たった一度でいい。
必要とされること。
誰かを大切に思いながら、生きること。
もし許されるのなら──そんな日々を。
その願いを胸に、男の意識はふっと途切れた。
音もなく。痛みもなく。
──静かに、闇がすべてを包み込む。
感覚は消え、思考も遠のく。
それでも、“存在”だけは残っていた。
目も見えず、声も出ず、時間の流れさえ曖昧な空間。
その深い静寂の中で、彼に残っていたものはただひとつ──
それは“願い”だった。
言葉にならない、小さな衝動。
けれど、生まれてからずっと奥底で燃え続けていた。
“何かのために生きたい”
“誰かと、つながっていたい”
知識や数式だけでは満たされなかった、本能的な希求。
そのとき彼は気づく。
自分を支えているのは、知識でも論理でもない。
──それは、温もりだった。
見えない何かが、やわらかく包んでいた。
科学では測れないはずの、確かなぬくもりが。
それは彼を導こうとしていた。
――ここではない、別の世界へ。
振動が差し込む。
最初はかすかな震え。やがて熱を帯びた鼓動に変わる。
光が滲む。
ぬるりとした感触。押し出される圧迫。
そして次に訪れる解放。
全身を襲う刺激。粘液のぬめり、空気の冷たさ。
肺に流れ込む新しい酸素。拡散、圧力差──赤子の脳裏に科学者の残滓がかすめた。
思わず、声が出る。
「……おぎゃあ……っ、あ……あああ……っ」
それは初めての“声”だった。
初めての“世界”だった。
そして──初めての、“生”の実感だった。
誰かの腕が、自分を抱き上げた。
あたたかい。やわらかい。
その腕に、言葉にできない安堵があった。
名もなき男は、生まれ直した。
前世で誰にも知られずに終わった命は、今──
銀色の髪の美しい女性の腕の中で。
名も、血も、過去もすべてを脱ぎ捨てて。
ただ“存在そのもの”として、この世界に迎え入れられた。
産声が、夜明け前の空に響いた。
──これは、ひとりの物理学者が“愛”を求めて生まれ変わった物語の始まりだった。
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