第8話「ふたりきりの勤務、雨音のなかで」

 朝の空はどこかどんよりとしていて、雲が低く垂れ込めていた。傘を持つか迷った沙良は、結局かばんの中に小さな折りたたみ傘を忍ばせて家を出た。


 学校への道を歩きながら、沙良は昨日のやり取りを思い出していた。


 ――「明日は、双葉さんはお休みなの。一緒に入るのは、私とあなたのふたりだけ」


 優佳の穏やかな声が、頭の中で繰り返される。その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられるような気持ちになった。


(ふたりきり……先輩と……)


 喫茶店の仕事にも少しは慣れてきたとはいえ、優佳と一対一となると緊張してしまうのは避けられない。沙良はふうっと小さく息を吐いた。


 放課後、制服のまま喫茶店へと向かうと、ぽつぽつと空から雨が落ち始めていた。海沿いの風景も、雨に煙ってどこか幻想的に見える。


 店に着くと、すでに優佳が裏口から入って準備をしていた。


「ごきげんよう、沙良さん」


 優雅に髪をまとめ、エプロンを整えるその姿は、いつもどおり凛としていて美しい。沙良は胸の奥がざわつくのを感じながら、小さく会釈を返す。


「お疲れさまです、優佳先輩……」


「今日は、ふたりきり。少し静かだけれど、落ち着いた時間になりそうね」


 微笑んだ優佳の声は、まるで雨音のようにやさしく響いた。


 開店準備は静かに進んだ。カウンターの上のガラス拭き、コーヒー豆の準備、窓辺の小物の整頓……いつもの作業のはずなのに、優佳とふたりきりだと思うと、すべての動作がぎこちなくなる。


 それでも優佳は急かすことなく、沙良の手元をそっと見守るだけだった。むしろその視線が、余計に緊張を呼び込んでしまうのだけれど。


「沙良さん、今日の髪型……いつもより、可愛いわ」


「えっ……えっと……そ、そうですか?」


 突然の褒め言葉に、沙良は顔を赤らめ、慌てて前髪を直すふりをした。ふたりの間に、くすりとした微笑みが生まれる。


 開店からしばらくは、静かな時間が流れた。雨のせいか客足はまばらで、観光客もちらほらとしか通らない。店内にはBGMのピアノと、外から聞こえる雨音が調和していた。


 ふたりきりの接客。沙良は、緊張しながらも一歩ずつ、優佳のように丁寧な所作を意識していた。


「いらっしゃいませ……お席へご案内いたします」


 小さな声だったが、はっきりとした言葉。年配の女性がにこやかに頷いてくれたのを見て、沙良の胸に小さな自信が芽生える。


 その様子を、カウンターの奥から優佳が静かに見守っていた。彼女の瞳に浮かんでいたのは、誇らしさと、少しの愛しさ。


「沙良さん、よくできました」


 優佳の言葉に、沙良はふっと安堵の笑みを浮かべた。


 閉店が近づく頃、店内には誰もいなかった。優佳は、カウンターに二つのカップを並べた。


「今日は、おつかれさま。コーヒー、いかが?」


「ありがとうございます……」


 ふたりで向かい合って飲むコーヒー。雨音が、遠くで静かに続いている。店の外はすっかり薄暗くなり、窓に映る自分と優佳の姿が、どこか親密な雰囲気を醸し出していた。


「沙良さん、また……こんなふうに、ふたりで働ける日が来たら嬉しいわ」


 優佳の声は、まるで灯りのように心に灯った。


 沙良は少し戸惑ったように頷き、ぽつりとつぶやいた。


「……私も……ふたりきりの日が、またあってもいいなって……そう思いました」


 沈黙。だがそれは心地よいものだった。優佳は少しだけ目を細め、沙良のカップに視線を落とす。


「その気持ち、大切にしてね。少しずつでいい。あなたらしく、進んでいけばいいのよ」


 雨がやんだのは、閉店の準備が終わった頃だった。沙良は傘を差さずに、夜の道を歩いた。しっとりとした風が頬をなで、今日の記憶が胸の奥であたたかく広がっていく。


 コーヒーの香り、優佳の声、雨音の余韻——


 そのすべてが、今夜だけの特別な宝物のように思えた。




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