第7話「ふたりきりの閉店後」

 喫茶店の営業時間が終わり、静まり返った店内には、食器を洗う水音だけが控えめに響いていた。


「ふう……今日も、なんとか終わった……」


 沙良は、カウンターの端にある椅子に腰掛けながら、エプロンの端をそっと握りしめた。

 午後のピーク時はミスもあったが、双葉や優佳に助けられ、どうにか乗り切れた。足は少し重たく、喉も乾いていたが、心には妙な満足感が残っている。


「沙良さん、こちら手伝ってもらえますか?」


 優佳の声が、奥から静かに響いた。沙良は慌てて立ち上がり、食器棚のほうへ向かう。


「はいっ!」


 まだ少し慣れない手つきで、食器を拭きながら、ふと横目で優佳を見る。

 薄桃色の照明の下、優佳は無言でグラスを拭いていた。背筋は真っすぐで、指の動きは繊細で、どこか絵画の中の人のように見えた。


「……すごい、ですね。優佳先輩って、なんでもできて……」


 思わず、心の声が口をついて出た。


 優佳は手を止め、沙良のほうに視線を向ける。


「そう見えるだけ、よ。私も、最初は緊張でお皿を割ったことがあるの」


「えっ……先輩でも?」


 沙良は思わず目を見開いた。


「ええ。お皿だけじゃなくて……コーヒーを落としたり、お客様の前で言葉が出てこなかったり。私も、たくさん恥ずかしい思いをしてきたの」


 優佳の声は、普段よりも少し柔らかく、少しだけ自分自身のことを打ち明けるような響きを持っていた。


「……それでも、ちゃんと、できるようになったんですね」


「努力をすれば、少しずつ前に進めるわ。沙良さんも、今日すごくがんばっていた。自分では気づいてないかもしれないけれど、接客も、声の出し方も、とても成長していたわよ」


「……うれしいです。そんなふうに言ってもらえて」


 沙良は、ふと胸の奥があたたかくなるのを感じた。


「明日、双葉さんは学校の用事で来られないって聞いたわ。沙良さんと二人での勤務、頑張りましょうね」


「ふ、ふたりきり……!」


 思わず、手の中のグラスを落としそうになった。優佳は驚くこともなく、ただくすりと微笑んで言った。


「私、沙良さんとゆっくり話せるの、楽しみにしているのよ?」


 その言葉に、沙良の鼓動がどくんと大きく跳ねた。


「……わ、わたしも……がんばります」


 視線を合わせることはできなかったが、それでも心の中に芽生えた小さな光が、胸の奥をじんわりと照らしていた。


 その日の帰り道。夜の海風はやさしく吹き、砂浜に近い道には、街灯がぽつぽつと光を落としている。


 沙良は制服の袖をそっと握りしめながら、小さくつぶやいた。


「……優佳先輩と、ふたりきり……」


 胸の奥に、あたたかい不安と期待が混ざり合った。


 それでも。


 ──きっと、明日は、今日よりもう少し話せる気がした。



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