第9話「夏休み、そしてはじめての電話」

 終業式が終わった午後。

 蝉の鳴き声が途切れなく続く中、沙良は家の窓から外をぼんやりと眺めていた。校門を出るとき、クラスメイトたちは「夏休みだ!」と声を上げてはしゃぎ、まるで鳥かごから解き放たれたように駆け出していった。


 けれど沙良には、その明るさが少しだけまぶしすぎた。

 夏休み。何も縛られない、自由な時間。けれど、だからこそ怖い。

 予定を入れなければ、誰かと連絡を取らなければ、自分はたやすく透明になってしまうのではないか。そんな不安が胸を締めつける。


 そんな中、スマートフォンに通知が入った。

 送信者は——春日双葉。


「ごめんね沙良ちゃん! 夏休みの最初の一週間、家族旅行に行くことになっちゃって。喫茶店、しばらく行けないの~!」


 メッセージには明るいスタンプが添えられていたけれど、沙良はその画面を見つめたまま、ぽつりと小さくつぶやいた。


「……そうなんだ……」


 喫茶店は営業している。自分もシフトに入る予定だ。でも、双葉がいない。優佳先輩とはまた会えるかもしれないけど、それでも、どこか空気が変わってしまう気がしていた。


 その夜。

 窓を少しだけ開けて、夜風を入れた部屋で、沙良はひとりベッドに横たわっていた。耳を澄ませば、遠くで花火の音が聞こえる。町内会の小さな祭りだろうか。


 ぽつり、ぽつりと、花火の音が鼓膜を震わせる。

 人の声が遠くから聞こえてきた気がした。笑い声、走る足音——そのどれもが、沙良の部屋には届かない。


 そんなとき、不意にスマートフォンが震えた。


 胸が跳ねた。こんな時間に誰だろう、と訝しみながら画面を見る。


 ——「小谷優佳」


 その名前を見た瞬間、指先が止まった。

 電話。メッセージではない。優佳先輩からの、直接の呼びかけ。


 受話器のアイコンをじっと見つめていた沙良だったが、やがて、そっと画面をスライドさせた。


「……も、もしもし……?」


『こんばんは、清水さん。……遅くにごめんなさい、起こしてしまったかしら?』


 優佳の、どこか柔らかい声が耳に届いた。

 普段の丁寧な物腰そのままに、けれど、電話越しの声はどこかあたたかかった。


「い、いえ……だ、だいじょうぶです……」


『それなら、良かった。少しだけ、話してもいいかしら?』


「……はい……!」


 答えながら、心臓がどくん、と跳ねたのがわかった。

 今、自分は、優佳先輩と“電話”をしている——それだけで、どこか現実がふわふわと揺らぐような、不思議な気持ちになっていた。


『……今日、双葉さんから聞いたの。旅行に出かけるって。少しのあいだ、あなた一人になるから、気になって』


「……!」


 沙良は驚いた。優佳が、自分のことを気にかけてくれていた。それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……うれしい、です。……ありがとう、ございます……」


『ふふ。……私も、こうして電話するのは、久しぶり。少し緊張してるわ』


「……え……先輩が……?」


『ええ。清水さんとお話しするのは、やっぱり……心がまっすぐになるというか。気を抜いたら、思ってもいないことまで話してしまいそうになるから……』


 静かな夜の中で、優佳の声は、心を包むように穏やかだった。

 まるで、子どものころの読み聞かせを思い出させるような、あたたかいトーン。


『明後日の午前中、喫茶店のシフト、入ってるわよね? 私も一緒だから』


「……はい。……よかった……」


 自然と、口元がほころんでいた。

 双葉がいない寂しさも、少し和らぐ。優佳と一緒なら、大丈夫な気がする。


『それじゃあ、またお店で会いましょう。……おやすみなさい、清水さん』


「……おやすみなさい、先輩」


 電話が切れたあと、沙良はしばらくスマートフォンを握ったまま、胸の奥に広がる余韻を味わっていた。


 話したのは、ほんの数分。

 でも、自分にとっては、何よりもあたたかな時間だった。


 窓の外で、最後の花火が夜空に咲いた。

 沙良の心にも、ひとつ、小さな光が灯ったように感じた——



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る