波沈
酢豆腐
波沈
辰木さん(仮名)の話。
防波堤の上で釣りをするのが、昔からの気晴らしだった。学生の頃は友達と、社会人になってからは1人で。
道具や方法にはこだわらなかった。何も釣れない日も多いが構わなかった。波の音と風の音、それで充分だった。
3月の終わりだったと思う。
いつもより少しだけ遅くまで残っていて、そろそろ帰ろうかと道具をまとめていたときだった。
「ざぶん」
と、水に潜るような音がした。
波の音に混じったのではない。はっきりと、すぐ近くで鳴った。
縁をのぞいたが、人の姿はない。
でも、波が一瞬、不自然に動いたように見えた。
魚が跳ねたか水鳥が潜ったか。そう思って、そのまま帰った。
次の日も、また同じ場所で釣りをしていた。風のない、やけに静かな夕方だった。
その時もまた、「ざぶん」という音がした。前日と同じように、防波堤の先のほうから。
今度は何もいないのを確認してから行ったのに、それでも音は聞こえた。
3日目も、4日目も、同じ時間に鳴った。
潜るというより、「沈む」に近い感じの音だった。
そのうち、釣りに行っていなくても聞こえるようになった。
会社でコピー機の前にいたとき。
スーパーのレジに並んでいたとき。
誰かと話していても、その声のすき間から「ざぶん」と聞こえる。
最初は幻聴を疑った。耳鼻科にも行ったし、紹介された心療内科にも通った。
医者は「ストレス性の幻聴の可能性がありますね」などと言ったが、録音してみたら、音がちゃんと入っていた。
スマホのボイスメモ。
仕事帰りの公園のベンチで録音したやつ。
30分くらいの中に、一度だけ、「ざぶん」と入っていた。
波の音じゃない、水が沈んでいく音だった。
それを医者に聞かせたが、「これは、風か何かでしょう」と言われて終わった。それでもう通うのはやめた。
だんだん、音がする場所が自分に近くなってきているような気がしてきた。
最初は防波堤の先のほう。
次はこちらにほど近い、底のほう。
それから、足元。
ある日、駅のホームでその音がした。
ちょうど電車が入ってくるタイミングだったから、誰にも気づかれなかったと思う。
ただ、自分の靴のすぐそばで、ぱちん、と泡が弾ける音がして、足元を見たら、床のタイルの目地がわずかに濡れていた。
気のせいだと思うようにして、そのまま家に帰った。
最近は聞こえない日もある。
でも、聞こえた日のことはよく覚えている。聞こえる前と、聞こえた後では、世界の色が、わずかに違って見えるのだ。
曇ったような、けれど濃くなったような。
風景が、暗く沈む。
今日はまだ聞こえていない。
でも、そろそろかもしれない。
波沈 酢豆腐 @Su_udon_bu
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