第1話

 話は少し前に遡る――。


 私(東出ひがしで月希つき)はクラスの中では目立たずに教室の隅にいるようなキャラだ。髪の長さはセミロングで、身長も158cmのごくごく普通の高校二年生。


 見た目は誰から見ても大人しいように見えるが、実はこう見えて中学生の頃までは髪が短く、本気でバスケをやっていた。


 あることがきっかけで、高校のバスケ部には所属しなかったが……。


 近くの高校を受験し、入学して、普通の高校生活を送っていた。しかし、この高校である人物と出会ったことで私の人生は大きく変わる。


 二年生になって同じクラスになった川北かわきた星那せなちゃんが私の人生の全てになった。


 彼女は中学生の頃から他校でも噂されるくらいバスケが上手だったので、印象に残っている人物だ。


 そんな星那ちゃんがなぜ県の四強に入らないこの高校にいるのか気になって、何気なく練習試合の様子を見に行った。そして、そこで星那ちゃんがバスケをする姿を見て感動した。


 まさに、私が小さい頃から目指していた姿。


 司令塔であるガードというポジションでチームをまとめながらも、コートの内側にドリブルで切り込み、点数を取るようなプレイ。コート全体を把握して、ゲームを進める知恵、経験値の高さはコート内のプレイヤーの中で抜きん出ていた。


 それから星那ちゃんを目で追うようになる。


 クラスではもちろん人気者だ。

 運動神経が抜群な上に、気さくで、気配りが上手で、分け隔てなく誰とも接する。

 おまけに顔がとても良い。

 赤みがかった長い茶髪をふわふわと揺らし、いつもハーフアップにしている。バスケをする時はその綺麗な髪をポニーテールにしていて、そのギャップもたまらない。


 バスケだけではなく、星那ちゃんのクラスでの立ち振る舞いを見て、性格も好きだと思うようになった。

 これが恋だと気がつくのにも、そう時間はかからなかった――。



 星那ちゃんのことで頭いっぱいになっていると、シャーペンのおしりでツンツンと腕を小突かれる。隣を見ると、友達の小野寺おのでら莉茉りまが嬉しそうに小声で話しかけてきた。


「ぼーっとし過ぎじゃない?」

「ちょっと考えごとしてて……」

「ちゃんとノート取りなねー」


 莉茉はくすくすと笑い声をこぼし、嬉しそうに黒板を見ていた。


 私は彼女から黒板に視線を移す。すると、心臓がこの教室中に響いてしまうのではないかと思うほど、激しい動きを始めた。


 私の視界に映るのは黒板のチョークの文字でも、教壇に立つ先生でも、椅子に座る生徒たちでもない。


 たった一人、私の目に輝いて見えるのは星那ちゃんだった。

 

 三列先の斜め前に座る星那ちゃんは、後ろからでも綺麗な顔立ちがよく見える。薄紅色のぷっくらとした唇が目に入り、彼女の唇よりも自分の顔が赤くなっていくのを感じた。

 

 その唇に触れたい――。

 そう思うようになったのはいつからだろう。


 彼女を見ていると、私の体内から水分が蒸発してしまいそうなほど熱くなって、心臓が壊れそうになる。


 そんなことを考えていると、星那ちゃんがそっと机からリップクリームを取り出し、唇にぬらりと塗り始めた。そのリップクリームは彼女の唇の上をなめらかに滑り、彼女の唇をより立体的にする。


 私の心臓は血の通った臓器でよかったと思った。どんなに激しく動いても、苦しくなっても、壊れることはないからだ。これがロボットならばとっくにオーバーヒートして、彼女のことを見届けられなかっただろう。


 昨日、私はそのリップクリームを撫でるように舐めた。


 自分の唇をそっと撫でる。

 ピリピリと静電気が唇に流れている気がした。


 どうしよう――。

 今、星那ちゃんと間接キスした――。


 自分が異常なことも、普通でないことも、狂っていることも重々承知している。


 しかし、伝えることすらできないこの想いのやり場がどこにもなく、行き着いたのが"好きな人のリップクリームを舐めて間接キスを味わう"ということだった。



 ※※※



 きっかけは、放課後にたまたま星那ちゃんの机の上に置かれたリップクリームを見つけたことだった。


 最初はほんの僅かな出来心。

 

 星那ちゃんのリップクリームが何色なのだろうとか、同じものを使いたいとか、そんな思いで机の上にあるリップクリームを手に取って眺めていた。


 トクトクと胸から聞こえる音が私に話しかけているようで、「蓋を開けて」と語りかけているような気がした。


 開ければその辺に売っているただのリップクリーム。それなのに、やけに光って見えて、私の脳裏に一つの良くない思考が浮かんできた。


 彼女の唇に触れる方法――。


 なんだ、こんな簡単な方法があるのではないか……と。


 教室内にも廊下にも誰もいないことを確認して、ちろっと舌を出した。


 リップクリームの表面をぺろりと舐めると、舌の上にはしなやかな感触と生クリームを舐めた時のような甘さが広がり、ほどなくして背中に汗が滲んだ。


 誰も見ているはずがないのに、すぐにリップクリームの蓋を閉めて、何かから逃げるように走った。


 家に着いても、なにかに怯えるように布団に潜っていたと思う。


 次の日も学校に行くまでの足取りが重く、私の横を通る同じ制服を着た人たちにビクビクと怯えながら歩いていた。

 教室に着くとクラスメイトが沢山いて、余計不安になる。私の昨日の行動が噂になっていたらどうしようと、暑くもないのに汗が滲み、心拍数は最高潮に達する。


 もちろん、私のそんな噂が広まっていることはなかった。


 いつも通りクラスの子たちと挨拶を交し、ホームルームが始まる。ちらりと、星那ちゃんを見るとリップクリームを唇に伸ばしていた。


 その光景を見た瞬間、脳にバチンと電流が流れたみたいな感覚になって、意識を失いそうになる。しかし、それは快感に近い感覚で悪いことをしているのに幸福に満たされる――。そんな感じだった。


 一瞬の快楽を覚えた獣はそれを繰り返すようになった。



 ※※※



 莉茉に注意されたのに今日も一日、星那ちゃんのリップクリームのことを考えて全ての授業が終わる。


 教室から誰もいなくなるまで待機して、廊下にも誰も居ないことを確認した。


 汗の滲むような思いでリップクリームをぺろりとひと舐めする。


 明日感じるであろう幸福のために、今日もひと仕事終えたので帰ろうとすると、その日はいつもと違うことが起きた。


 教室の窓際にあるバルコニーの引き戸がガラガラと音を立てて開く。


 そこにはクラスメイトの西野にしの陽向ひなたさんが居たのだ。

 西野さんは星那ちゃんと同じバスケ部で、コートでは星那ちゃんと協調しながらも競うようにバスケをしていたのでよく覚えている。

 さらにこのクラスで星那ちゃんとトップを争う人気者。


 しかし、今は西野さんのことはどうでもよくて、この状況に怯えていた。まるで、立ってしまえば有罪以外認められない、魔女裁判の証言台に立たされている気分だ。


 落ち着け自分……と言い聞かせる。

 見られたと決まったわけではない。

 

 平静を装って帰る。それで大丈夫だ。


 彼女に背を向けると、人を嘲笑するような声が飛んできた。


「星那のリップに何してたの?」


 その言葉に全身の毛が逆立ち、体は冷たくなっていくのに、熱のある汗がじわじわと滲む。


 何か言い訳を探しても、それらしい理由は思い浮かばなかった。逃げようとすると、ドンと壁に西野さんの手が張り付き、信じられないくらい距離を詰められた。


「星那のリップ舐めてるのみーちゃった――」


 かわいらしい顔と声なのに、言っていることは私を絶望に追い込む言葉だった。 膝からは力が抜け、立っているのがやっとだ。


 私の人生は終わり――。


 しかし、私はまだ諦めていなかった。最後の望みをかけて。


「誰にも言わないでください……」

「へー、認めるんだ」


 尖った言葉が胸を貫通する。


 この出来事が噂として広まった教室を想像すると、吐き気とか悪寒おかんとかそういう言葉では片付けられないほど、内臓も心も引きちぎられ、練り潰されそうな気分になった。


 焦りから呼吸が荒くなっていくと、西野さんはにっこりとこちらを見て笑っていた。


「いいよ。秘密にしてあげる」

「えっ……?」


 暗黒世界にいた私の世界に一筋の光が差す。

 しかし、すぐにその光も絶たれた。


「その代わり、私の言うこと全部聞いてくれることが条件ね」


 西野さんはくるりと身を翻し、スカートがひらりと舞う。その姿は映画のワンシーンのようで、西野さんは小悪魔のようだった。


 彼女の出す条件がどんなものであっても、私がこの学校に居てもいいのならば、星那ちゃんを近くで見ていられるのならば、それでよかった。


「なんでもします」

「そうこなくちゃ。じゃあ、キスして――」

「はい……?」


 これが好きでもない、むしろ苦手だと思う西野さんとの出会いだった。

 

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