第6話

 アリシアの紫の瞳が、俺という新たな『おもちゃ』を見つけ、悪魔的な輝きを放っている。

 

「何か、この私を、もっと楽しませる別の提案でも、あるのかしら?」


 その言葉は、死刑囚に下された、最初で最後の慈悲のようだった。

 広場の全ての視線が俺に突き刺さる。

 

 恐怖、憐れみ、そして、ほんのわずかな期待。

 背後では、老人の必死に息を殺す音が聞こえる。

 魔獣は苛立ち始めたのか、グルル、と低い唸り声をあげていた。

 

 俺は、目の前の美しい悪魔の瞳をまっすぐに見据え、口の端に不敵な笑みを浮かべた。

 怒りではない。

 これから始まる、最高の勝負への武者震いだ。


「ああ、あるぜ。極上の提案がな」


 俺は、この絶望的な状況に似つかわしくないほど、ハッキリとした声で言った。


「あんたが言うところの『美食家』だってんなら、話は早い。――俺と、料理で勝負しようじゃねえか」

「…………は?」


 一瞬、アリシアの完璧な表情が凍り付いた。

 広場全体が、時が止まったかのような静寂に包まれる。


 そして次の瞬間、アリシアは腹を抱えて笑い出した。

 鈴を転がすような、しかしどこまでも冷たく、人を小馬鹿にしたような笑い声が、夜空に響き渡る。


「くっ……くくくっ、あははははは! 料理勝負ですって!? 本気で言っているの、あなた?」

 

 彼女は涙を拭う仕草をしながら、俺を上から下まで見下した。

 

「この私、アリシア・クリムゾンの舌を、その汚いの手で作った料理で満足させられるとでも、本気で思っているのかしら? 面白い。面白すぎるわ、あなた!」

「どうかな。試してみる価値はあると思うが?」

 

 俺は動じない。

 むしろ、彼女のその傲慢さこそが、俺の勝利を確信させていた。


「いいでしょう。その面白い提案、乗ってあげるわ。でも、ただ勝負するだけではつまらない。賭けるものが必要でしょう?」

「望むところだ。俺が勝ったら、その人の処刑は当然中止。そして、この街の領民から全てを奪う圧政をやめ、人間らしい、まともな食事ができるようにすることを約束しろ」


 俺がそう言うと、アリシアの笑みが消え、紫の瞳が鋭く細められた。

 

「……随分と大きく出たわね。私の統治にまで口を出すとわね……いいわ。面白い。では、あなたが負けた場合は?」


 俺は間髪入れずに答えた。

 

「俺の命。あんたにくれてやる。その魔獣の餌にでも、好きにすればいい」


 俺の言葉に、広場が再びどよめいた。

 背後で老人が「若いの、よせ!」と悲鳴のような声をあげたのが聞こえる。


 だが、アリシアは、その提案がよほど気に入ったらしい。

 その唇が、恍惚とした笑みを刻んだ。


「素晴らしいわ! 最高の提案よ! あなたのその命、私が美味しくいただいてあげる!」

 

 彼女はうっとりとそう言うと、しかし、と人差し指を立てる。

 

「ただし、一つ条件を追加させてもらうわ。もし、あなたの作る料理が、私の期待を裏切るような『つまらない』ものだった場合――その時は、あなたもその老人も、二人仲良く、この子の晩餐になってもらう。いいわね?」

「ああ。それでいい」

「決まりね!」


 アリシアはパチンと指を鳴らすと、騎士たちに命じた。

 

「この男を城の厨房へ。それから、そこの老人も牢へ入れておきなさい。……勝負が終わるまでは、ね」


 こうして、俺は実質的な囚人として、アリシアと共に彼女の居城へと向かうことになった。

 城への道すがら、アリシアはまるで長年の友人のように、俺の隣を歩きながら話しかけてくる。


「私はね、物心ついた時から、大陸最高峰と言われる料理人が作る料理しか口にしたことがないのよ。帝都の『美食卿』、南方の『炎帝』、東の国の『味神』……彼らですら、私を完全に満足させられたことは、片手で数えるほどしかないの」

 

 彼女は、俺を威圧するように、伝説的な料理人たちの名前を並べ立てる。

 

「彼らと比べて、あなたに何ができるというの? あなたのその妙な自信は、一体どこから湧いてくるのかしら? 単なる、世間知らずの無知から?」


 俺は、彼女の言葉に、ただ静かに前を向いたまま答えた。

 

「あんたが名前を挙げた連中の料理は、食ったことがある。確かに技術は一流だった。だが、魂が空っぽだ。あんなものは、本当の料理じゃねえ」


 俺の言葉に、アリシアの眉がピクリと動いた。


「食べてもらえば分かるさ。あんたが今まで食べてきたものが、ただの『餌』だったってことをな」


 俺の揺るぎない自信に、アリシアは一瞬だけ言葉を失ったようだった。

 だが、彼女はすぐにそれを傲慢な笑みで塗りつぶす。


 やがて、俺たちは城の厨房へと到着した。


 そこは、俺がこれまで見たこともないほど、豪華で、広大で、そして完璧な設備が整えられた空間だった。

 磨き上げられた銅鍋が壁一面に掛けられ、巨大な石窯が荘厳な熱気を放っている。

 大理石の調理台はどこまでも広く、清潔に保たれていた。


 メイドや料理人たちが、緊張した面持ちで俺たちを出迎える。


 誰もが、俺がこの完璧な厨房に圧倒されるだろうと思っていたはずだ。


 だが、俺の表情は、歓喜とは程遠いものだった。

 俺は、厨房全体を見渡しながら、その眉間に深い皺を刻みつけていた。


 何かが、おかしい。

 何かが、決定的に、間違っている。


 この完璧に見える厨房には、料理にとって最も大切なものが、完全に欠落している。

 

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