第5話

 彼女は俺からふわりと身を離し、再び玉座へと戻っていった。

 まるで、俺という存在に興味を失ったかのように。


 彼女は玉座に深く腰掛けると、その冷徹な視線をひざまずく住民たちへと移した。

 広場の空気が、先ほどよりもさらに冷たく、重く張り詰めていく。


「さて、と」


 アリシアは、まるで芝居の幕を開けるかのように、優雅に手を組んだ。

 

「本題に入りましょうか。今月の税収、聞くに堪えないほど足りていないわね。あなたたち、私を飢えさせるつもりかしら?」


 その声は静かだが、含まれた怒気は広場にいる全ての人間を震え上がらせるのに十分だった。

 住民たちはさらに体を縮こまらせ、誰一人として顔を上げようとしない。


 やがて、アリシアの冷たい視線が、群衆の中の一点に突き刺さる。


「……そこのあなた。今月の徴税官だったわね。前に出なさい」


 その命令に、住民たちの中から一人の老人が、まるで糸の切れた人形のようにガクガクと震えながら引きずり出された。

 老人はアリシアの玉座の前まで引きずられると、みっともなく地面に這いつくばった。


「も、申し訳ございません、アリシア様! お許しを、お許しを……!」

「許し? 私が聞きたいのは、あなたの無様な謝罪ではなく、税収が足りない理由よ」

「そ、それは、今年は例にないほどの不作でございまして……。皆、自分たちが食べるものにも困っている有様で、とても税を納めるだけの蓄えが……」


 老人の必死の懇願を、アリシアは心底退屈だと言わんばかりの表情で聞いていた。

 やがて、彼女はわざとらしく大きな溜息をつく。


「言い訳は聞き飽きたわ」


 その一言が、断頭台の刃が落ちる合図だった。


 アリシアが軽く手を振ると、待機していた騎士たちが、広場の隅に置かれていた巨大な鉄の檻をゴロゴロと押してきた。

 檻の中から、グルルル……という地を這うような唸り声と、鉄格子を爪で引っ掻く不快な音が聞こえてくる。

 鼻を突く、獣の濃密な臭い。


「ま、魔獣……!?」


 住民たちの間から、悲鳴に近い囁きが漏れる。

 騎士が檻の扉を開け放つと、中から巨大な獣がそのおぞましい姿を現した。


 熊よりも一回りは大きいだろうか。

 全身を硬そうな黒い体毛で覆われ、口からは黄ばんだ牙が覗いている。

 爛々と赤く輝く瞳は、明確な知性と、飢えた残虐性を宿していた。涎を垂らしながら、ひざまずく住民たちを品定めするように見ている。


 アリシアは、その魔獣を愛おしげに見つめると、再び老人へと視線を戻した。


「その言い訳ばかりが達者な老人を、この子の餌にしておやりなさい」

「―――ッ!!」


 広場が、声にならない絶叫で満たされた。

 老人は顔面蒼白になり、「ひっ……」とカエルの潰れたような悲鳴を上げた。


 群衆の中から、「お父さん!」という若い娘の悲痛な叫び声が聞こえた気がした。


 騎士たちが老人の両腕を掴み、魔獣の方へと引きずっていこうとする。


「やめろぉぉぉぉっ!!」


 俺の喉から、自分でも驚くほどの怒声がほとばしった。

 それは、腹の底からの、理性を超えた魂の叫びだった。

 

 俺は、目の前にいた住民たちを文字通り掻き分け、アリシアと老人の間に仁王立ちになる。


 突然の乱入者に、騎士たちも住民たちも、そしてアリシアさえもが虚を突かれたように目を見開いている。

 俺の視線の先には、ただ一人、玉座で優雅に頬杖をついているアリシアの姿だけがあった。


 彼女は、驚きの表情から一転、心の底から愉快だと言わんばかりに、その美しい唇を三日月形に歪めた。

 待っていた。こいつ、俺がこうすることを、心のどこかで待っていたんだ。


「あら、よそ者が、私の裁きに口を出すというのかしら?」


 その声は、まるで面白い芝居を見つけた観客のように、弾んでいた。


「ふざけるな! これは裁きなんかじゃない、ただの見せしめ殺人だ! 罪もない老人を獣の餌に突き出すなど、人のやることか!」


 俺の怒声に、アリシアはくすくすと肩を揺らして笑っている。


「理不尽? 私がこの領地の法よ。私が決めたことが、絶対の正義なの」


 彼女はすっと立ち上がると、再び俺の前まで歩み寄ってきた。

 先ほどよりも、その瞳の奥の光は危うさを増している。


「では、どうするの? あなたが、その老人の代わりに、この可愛い魔獣ちゃんの晩餐になってくれるのかしら?」


 彼女は俺の顎に、そっと冷たい指先を添わせる。

 その挑発的な仕草に、俺の怒りは沸点に達しようとしていた。


「それとも……」


 アリシアの指が、俺の唇をなぞる。

 彼女の紫の瞳が、新たな、そして極上の『娯楽』を思いついたとでも言うように、悪魔的な輝きを放った。


「何か、この私を、もっと楽しませる別の提案でも、あるのかしら?」


 広場の全ての視線が、俺の一挙手一投足に注がれている。

 俺は、目の前の美しい悪魔を睨みつけ、覚悟を決めた。

 

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