第7話
アリシアに導かれるまま、俺は城の厨房へと足を踏み入れた。
そこは、俺がこれまでの人生で見たこともないほど、圧倒的に豪奢な空間だった。
天井は高く、磨き上げられた銅鍋やフライパンが壁一面に芸術品のように掛けられている。
部屋の中央には、十数人が同時に調理できそうなほど広大な大理石の調理台が鎮座し、その奥では巨大な石窯が荘厳な熱気を静かに放っていた。
メイドや料理人と思しき人々が、十数名、緊張した面持ちで壁際に直立し、俺たちの一挙手一投足を見守っている。
「どうかしら、私の厨房は。大陸最高の設備を揃えさせているの。これなら、あなたも存分に腕を振るえるでしょう?」
アリシアが、自慢のコレクションを見せびらかすように、胸を張って言った。
彼女の背後に立つメイド長も、誇らしげに頷いている。
誰もが、俺がこの完璧な厨房を前に、感嘆の声を上げるものと信じて疑っていなかったはずだ。
だが、俺の表情は、歓喜とは程遠いものだった。
俺は厨房全体をゆっくりと見渡しながら、その眉間に深い、深い皺を刻みつけていた。
何かが、おかしい。
何かが、決定的に、間違っている。
この完璧に見える厨房には、料理にとって最も大切なものが、完全に欠落しているのだ。
「何よ、その顔は。この厨房に何か不満でもあるというの?」
俺の表情をいぶかしんだアリシアが、苛立ちを隠せない声で問う。
俺は答えず、ゆっくりと歩き出した。
まずは、調理台の脇に置かれた、山と積まれた野菜の籠へ。
中には、一玉が金貨一枚は下らないと言われる『ダイヤモンドレタス』や、完璧な形をした『ルビーキャロット』が並んでいる。
見た目は、確かに一級品だ。
俺は、その中からニンジンを一本、手に取った。
ずしりと重い。形も色も、教科書に載っているかのように完璧だ。
だが……。
「……」
鼻を近づけても、あの独特の、土の匂いと野菜本来の甘い香りがしない。
まるで、精巧に作られた蝋細工のようだ。
形だけの、魂のないニンジン。
次に、俺は肉が保管されている氷室へと向かった。
そこには、見事な霜降りの入った巨大な肉塊がいくつも吊るされている。
「これは『飛竜のサーロイン』、そしてこっちは『白銀猪のバラ肉』でございます。いずれも、最高の冒険者パーティーが命がけで狩ってきた、Sランクの食材でございます」
メイド長が、得意げに説明する。
確かに、見た目は極上だ。
だが、俺の目はごまかせない。
「……これも、ダメだな」
俺の口から、落胆のため息が漏れた。
肉の色が、わずかにくすんでいる。
そして何より、肉そのものから放たれる『気』が、あまりにも弱い。
本来、極上の肉というものは、それ自体が生命力のオーラを放っているものだ。
狩られる直前まで、どんな草を食べ、どんな大地を駆け巡っていたのか。
その記憶が、肉の細胞一つ一つに刻まれている。
だが、ここの肉からは、そんな物語が一切感じられない。
ただの、高価なタンパク質の塊だ。
俺は氷室から出ると、アリシアとメイド長に向かって、はっきりと断言した。
「話にならない。これじゃ、最高の料理なんて作れっこない。……ここの食材は、全部『死んでいる』」
「なっ……!?」
俺の言葉に、メイド長はカッと目を見開き、侮辱されたとでもいうように顔を真っ赤にした。
「何を馬鹿なことをおっしゃいますか! ここに在りますのは、いずれも大陸中から取り寄せました最高級の食材ばかり! アリシア様のお口に入るものに、一切の抜かりなど、あるはずがございません!」
「だから、そこが根本的に間違ってるんだよ」
俺は、先ほど手に取った魂の抜けたニンジンを、アリシアの目の前に突きつけた。
「値段が高けりゃいいってもんじゃない。食材には命があるんだ。それを育てた人間の想いや、その土地の魂が宿ってる。こいつらからは、その一番大事なもんが、すっぽり抜け落ちてるんだよ。これじゃ、ただの栄養素の塊だ」
「……訳の分からないことを言わないでちょうだい!」
アリシアが、ついに堪忍袋の緒が切れたとでも言うように叫んだ。
「品質は保証されているわ! 大陸最高のギルドと商会が、その価値を認めているのよ! あなたが言っているのは、ただの感傷的な戯言に過ぎないわ!」
彼女には、俺の言っている意味が、心底理解できないのだろう。
彼女にとっての『価値』とは、値段や希少性、権威ある者の評価でしかないのだ。
「……だから、あんたには分からねえだろうなって言ったんだ」
俺はアリシアに背を向けると、騎士たちが運び込んできた、俺の薄汚れた荷車へと向かった。
そして、荷台を覆っていた分厚い布を、勢いよく剥ぎ取った。
その瞬間だった。
厨房の空気が、一変した。
それまで無機質で、どこか寒々しかった厨房に、むせ返るような、濃厚な生命の匂いが満ち溢れたのだ。
土の香り、草の香り、果実の甘い香り、そして、野生の力強い肉の香り。
それらが混じり合った、あまりにも芳醇な『命の匂い』が、アリシアたちの鼻腔を支配する。
俺の荷台の食材たちは、それ自体が淡い光を放っているかのように、生き生きと輝いていた。
「これが、本物の食材だ」
俺は、荷台の中から、一際大きく、見事な赤黒い輝きを放つ肉塊を取り出した。
「こいつは、三百年を生きたという『古代牛』の肉だ。こいつの細胞の一つ一つには、三百年分の太陽と大地の記憶が詰まってる」
次に、泥のついたままの、ごつごつとした根菜を手に取る。
「こいつは『幻の満月カブ』。満月の夜にしか収穫できない、大地の魔力が凝縮した逸品だ」
アリシアも、メイド長も、そして厨房にいた全ての人間が、言葉を失って俺の荷台に見入っていた。
彼らが今まで見てきた『高級食材』とは、次元が違う。
そこにあるのは、金で買える『モノ』ではない。
この世界そのものが育んだ、荒々しくも美しい『命』そのものだった。
アリシアの紫の瞳が、初めて見るその光景に、困惑と、そして抗いがたい魅力に引きつけられるように、揺らめいていた。
やがて、彼女はハッと我に返ると、その動揺を隠すかのように、再び挑戦的な笑みを浮かべた。
「……面白いわ。その得体の知れない食材で、本当にこの私を満足させられるというのなら、見せてみなさいよ。その腕前とやらを」
俺は、腰のケースから、長年使い込んできた相棒の牛刀を抜き放つ。
シュルン、と澄んだ金属音が響き、俺は鈍く光るその切っ先を、目の前の『古代牛』の肉塊へと向けた。
さあ、始めようか。
最高の食材と、俺の全てをかけた、至高の料理を。
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