第4話 休息と急速

ナーヴァは、顔を上げなかった。

そこにあったのは怒りでも悲しみでもなく、“信じることをやめた沈黙”だった。


グラウブは息を飲む。

「ナーヴァ……どうした……?」


……空気が、冷たい。

ほんの数日前とはまるで違う。

少年の瞳は、もうグラウブを“見て”いなかった。


「……ああ、そうだ。最近、トレーニング頑張ってるんだよな」


わかってる。話を逸らしてるだけだ。

でも、どうしても――このまま“言葉を失う”のが怖かった。


「……ナーヴァ、すげえよ。ちゃんと強くなってる。俺も驚いた」


けれどその言葉に、ナーヴァは――反応しなかった。


焚き火越しにグラウブの瞳は、

ただまっすぐに“信じること”を貫こうとしていた。



その夜。炎の前に佇んでいたのは、黄色い短髪を揺らす小柄な少年──ナーヴァ。

褐色の肌に浮かぶ汗の粒が、火の光に照らされてきらめいていた。

不安を隠しきれず、小さな両手をぎゅっと握りしめたその口元から、少し尖った犬歯が覗く。


「……いい子だな。よしよし……」


グラウブは目を細め、そっとナーヴァの頭を撫でる。

その手に、迷いはなかった。……けれど、胸の奥では小さなざらつきが静かに疼いていた。



夕食を終えたナーヴァは、毛布にくるまり丸くなって眠っていた。

狼のような耳だけが、まだ小さく動いている。


グラウブは焚き火の前に腰を下ろし、黙ってその寝顔を見つめていた。


「……ナーヴァ。よく頑張ったな」


焚き火の音に紛れるように、ぽつりと独り言。


「ここまで強くなるとはな……。お前は、誰と生きるかでこんなに変わるやつだったんだな」


その声に反応するように、ナーヴァが寝返りを打つ。

尻尾が毛布の外にぴょこっと出て、小さくつぶやいた。


「んー……グラウブ……?」


「……いや、なんでもない。まだ朝まで時間あるから、ゆっくり寝な。俺も寝るよ。おやすみ、ナーヴァ」


「うん……おやすみ……」



──数時間後。


「おはようっ、グラウブっ!」


元気な声とともにナーヴァがぱちりと目を開け、尻尾をばたつかせながら飛び起きた。

だが空はまだ薄暗く、森は静まり返っている。


「……あれ?」


小屋の中に、グラウブの気配はない。焚き火も冷え切っていた。


「グラウブ……?」


ナーヴァは耳をピクリと動かし、急いで外へ飛び出す。


「どこ……? グラウブ……?」


暗い森の中、銀の瞳がきょろきょろと揺れる。


「またあのときみたいに……誰もいなくなっちゃうの……?」


その言葉に重なるように、守りたいという強い想いが胸に湧き上がる。

だが同時に、いつもよりざわつく森の風が不安を煽る。


「不安だ……」


震える声が、森の静けさに飲まれていった。



一方そのころ、グラウブは森の奥、川辺の岩場で静かに座っていた。


短く整えられた黒髪を朝露が濡らし、健康的な肌の上を冷たい風が撫でていた。


「ナーヴァばかり強くなっても、俺が弱けりゃ話にならない……」


水面を見つめながら、拳を握る。


「俺は俺で、力をつけなきゃならねぇ……」


目を閉じ、深く息を吸い込む。


「あいつが言ってた制約。正義を実行すれば、俺も、アルべリスも死ぬ……か」


「……アルベリス。今は無事だろうか……」


脳裏に浮かぶのは、赤髪の少女の笑顔と、血に濡れた手。


「誰も死なせたくない。あのときみたいに、もう二度と……」


手をかざすと、治癒魔法が淡く灯る。


「……使える。これは“俺のため”に使ってるからか……?」


焚き火の残り火を見下ろし、ぼそりと漏らす。


「……もうこれは救う魔法じゃない。ただ、生き延びるための力……なのかもしれない」


小さく息を吐き、目を細めた。


「……それでも、俺は──」


夜明け前の風が、彼の黒髪を揺らしていた。


***

次回予告


焚き火が消えた夜。

ナーヴァの心からも、光がひとつ消えかけていた。


信じたい。けれど、どうしても拭えない不安。

“また裏切られるかもしれない”――そんな恐れが、彼を突き動かす。


そして、

グラウブの前に立ちはだかるのは、もう一つの“真実”。


癒しのはずだったその魔法が、もたらしてきたのは何だったのか。

助けてきた“はず”の誰かが、もし……。


暴走する獣の咆哮。

崩れる信頼と、向けられる牙。

交差する罪と痛みの中で、

グラウブは“本当の代償”を知ることになる。


──次回、第5話『疑いと真実』


信じたことの代償は、いつだって遅れてやってくる。


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