1-2:風の島、豊玉町

対馬(つしま)に着いたのは、どこか名残雪のような霞のかかった午前だった。

天城 蓮(あまぎ れん)は、港のベンチに座り、スマホの電源を切った。

空っぽになったSNSの画面。着信履歴には、芸能関係者からの連絡がいくつも並んでいたが、彼はそれを見ないようにした。

(対馬——遠くて、誰も俺を知らない場所)

島を訪れたのは幼い頃の数回だけ。父・天城 慶一郎(あまぎ けいいちろう)の別荘があると聞かされてはいたが、具体的な記憶は曖昧だった。

港から出る路線バスに揺られて小一時間。

やがて「豊玉(とよたま)高校前」というバス停で下車すると、見上げた先には二階建ての校舎が見えた。青くて、少し古い。

桜はもう散っていて、かわりに藤の花が校門横で揺れていた。

「……空気がうまい。騒音がない。最高」

つぶやいた蓮の声は、どこか投げやりだった。

その日は始業式。春休み明け、全校生徒が体育館に集まり、校長の話がえんえん続く中——

「ねぇ、転校生くんだよね?」

と、不意に隣の生徒が話しかけてきた。

栗色の髪をポニーテールでまとめ、制服の襟元にキーホルダーをつけた少女。

彼女はにこやかに、手を差し出してきた。

「初瀬 まひる(はつせ まひる)。ここの2年生。よろしくね!」

「……ああ。天城 蓮(あまぎ れん)です。よろしく」

淡々と答える蓮に対し、彼女はニヤッと笑った。

「うわ、東京出身ってだけでシティ感ある~。めっちゃ静かだし、言葉選ぶタイプでしょ?」

「突然ジャブ強いな、この人……」

「え? なに?」

「いや、独り言」


その後の午前中、蓮は教師からの自己紹介を数回求められ、クラスメイト数名から「えー東京!?」と話しかけられた。

コンビニの場所を聞かれ、制服の着崩しを真似され、知らない女子に「天城くんってさ〜」と名字呼びされる始末。

(……静かに、誰にも関わらず、生きるつもりだったのにな)

早くも計画が瓦解しかけているのを感じて、蓮は放課後、誰にも告げずに校舎裏へと抜け出した。

風が強かった。

どこまでも青い空の下、海が見えた。そこに、ぽつんと佇む木造の建物。神社のようだった。

(……あそこ、登れるのか)

好奇心というより、逃避。

蓮はその静けさに引かれるように、神社の裏手にある古いステージのような石畳へと足を運んだ。

そこで、彼は“それ”を見た。


舞っていた。

ひとりの少女が、イヤホンを耳に、スマートフォンを片手に、誰もいない踊り場でステップを刻んでいた。

お世辞にも上手とは言えない。けれど、リズムに合わせて繰り返される振り付けは、明らかに《StellaCue(ステラキュー)》のものだった。

そして、その少女の髪が揺れた瞬間、彼は気づいた。

「——初瀬……?」

「わっ!?」

気づけば、声が出ていた。驚いた少女——初瀬 まひるが振り向き、スピーカーから流れていた音が止まる。

「あ、え、えぇ!? 見てた? いや、違う、これは練習であって、えっと、盗撮とかじゃなくて……!」

「盗撮ではないだろ……いや、うるさいな。静かにしろ」

頭を抱えるまひるに、蓮はひとつ溜め息をついた。

「StellaCueの練習だったのか。……それ、昔のライブ映像?」

「え!? わかるの!? う、うん……ステラキューの武道館ライブ。あれ、ほんとに、なんていうか……」

少女の目が、熱を帯びた。

「……すごかった。ほんとに、あのステージ見た瞬間、私も……こんなところからでも、あんな場所へ行けたらって……そう思ったんだ」


その目を見たとき、蓮は思わず言葉を飲み込んだ。

それは、かつて自分が信じていた“誰かの夢を本気で背負う目”だったからだ。

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