【第四十七章】 弦のない楽器

 かつて音楽が流れていた空間は、今は静まり返っていた。

 旧講堂――事件の夜、ルカの最後の演奏が響いた場所。

 封鎖中のはずだったその扉が、今だけ、わずかに開かれている。

「……本当に、ここでやるの?」

 ミユが、どこか怖れるような声で尋ねた。

「ここでしか意味がない。音が残ってる場所じゃなきゃ、成立しない。」

 いぶきの声は静かだったが、その目には強い意志があった。

 さやかがタブレットを掲げる。

「理事会、許可出たよ。あくまで“記録用の検証演奏”。監督者同伴で、最大一時間。」

 講堂の隅には、真壁が小型スピーカーと計測用マイクを設置していた。柘植は腕を組みながら壁にもたれ、沈黙の立会人として視線を流している。

 そこに、もう一人、遅れて姿を現したのは高村詩音だった。

「設営の手伝いに来ました。……これ、機材室から持ってきた記録用ICです」

 詩音は小柄な体に見合わないほど大きなケースを抱えていた。だが、その動作は慣れている。おそらく、こうした作業には何度も携わっているのだろう。

「あれ?詩音ちゃんも来るって聞いてなかったけど……」

 さやかが小声でつぶやいた。

 「……補佐として柘植先生に言われました」

 詩音はそう答えた。が、柘植は特に相槌もせず、無言で壁にもたれたままだ。

 妙な沈黙が流れた。

 そして、真壁蒼汰と篠宮理玖も姿を現す。

「……ずいぶんと、物々しい雰囲気だね」

 篠宮だった。

「整理したいだけです。なぜこんなことが起きたのか、どうして俺たちがここにいるのかを。」

 足元には、数枚の譜面。どれも、すでに事件と結びついたものだ。

「事件は、ただ起きたんじゃない。誰かが“形”を選んだんです。」

 静かに、譜面の一枚を拾い上げる。滲んだ五線、乱れた旋律。

「この譜面は、音楽として成立していない。いや、意図的にそうされている。でも、こういう曲を“創る”人がいるとしたら、それは……演奏者ではなく、設計者です。」

 篠宮の顔に、変化はない。腕を組み、背中を壁に預けたまま、ただ視線だけをいぶきに向けている。

「旋律が人を選び、名前を刻み、誰かを導く――そんな偶然、ありません。誰かが“物語”をなぞらせたんです。封印でも呪いでもない。これは、“演出”です。」

 真壁がわずかに眉を上げる。柘植は腕を組み直したが、口を開くことはなかった。

「じゃあ、その演出家は誰なんだ?」

 その問いを口にしたのは、さやかだった。はっきりした声だったが、どこか感情を押し殺していた。

 いぶきは答えなかった。ただ、手にしていた譜面を静かに地面へ戻した。

「まだ言いません。でも、言葉じゃなく、“音”が答えを持っている気がしてます。」

 ミユが小さく息を吸った。

「……じゃあ、どうするの?」

「音を、鳴らさないことです。」

 講堂に沈黙が落ちた。演奏のために作られた空間に、音がないという皮肉。

 その静寂の中、篠宮が初めてわずかに笑った。

「面白い考え方だ」

「面白くはありませんよ」

 いぶきは、視線を外さずに言った。

「命のかかった話です」

 そのときだった。

 詩音が手にしていたケースの中から、古いノートがひとつ滑り落ちた。

 「……これは、なに?」

 ミユが目ざとく拾い上げた。

 表紙には「第二講堂ピアノ収録記録」と記されていた。

 詩音はノートに目を落とすと、ひと呼吸だけ間を置いて口を開いた。


「……記憶にないです。でも、私が出入りしてる部屋だから、どこかで紛れたのかもしれません。」


 声の調子は落ち着いていた。ただ、その口調のなめらかさに、逆に“慣れ”のようなものが感じ取れた。


 誰も指摘はしなかった。けれど、講堂の空気が、ほんの少しだけ沈んだ。

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