【第四十四章】 静寂の境界線
期限はあと二日に迫っていた。
午後の光は、薄く濁っている。
空は曇天で、音楽棟の窓硝子をくぐった日差しも鈍く、床の木目を曖昧に照らしていた。
音楽準備室の戸がわずかに開いていた。誰かが中にいる気配がする。いぶきは立ち止まり、ノックの代わりにそっと声をかけた。
「……お邪魔します」
返事はなかった。だが、紙をめくるかすかな音がした。
いぶきは戸を押し、静かに中へ入った。室内には一人だけ、人影があった。高村詩音、一年の後輩。棚の前に立ち、手元の書類を一枚ずつ整えているようだった。彼女の動きは正確で、だがどこか、ぎこちなかった。
「……ひとりで片づけ?」
いぶきの声に、詩音の肩が小さく揺れた。彼女は振り向き、かすかに笑った。
「はい。気になってしまって……授業で使った譜面、バラバラのまま残っていたので」
「それ、教師の仕事じゃない?」
「でも、整ってないのを見ると、落ち着かないんです。順番とか……音の流れが、狂っているようで」
いぶきは少しだけ微笑んだ。
「音に敏感だな」
詩音は、目を伏せて、わずかに頷いた。
「……逆なんです。本当は、音が苦手で」
「苦手?」
「静かなほうが、好きです。音がたくさんあると、頭の中で分解されて、どうしても全部が見えてしまう。だから授業中も、たまに気が遠くなることがあって……」
その声音には、作り物ではない苦悩の色がにじんでいた。絶対音感という贈り物は、時に呪いにもなる。いぶきはそれを、少しだけ理解しているつもりだった。
ふと、机の隙間から紙片が滑り落ちた。いぶきはそれを拾い上げた。白い封筒の表に、黒いインクで書かれている。
──「R.L.」
それだけ。差出人も、内容も記されていない。だが、いぶきにはその記号に見覚えがあった。
詩音が、ふと動きを止めた。
「……それ、どこに?」
「机の隙間から。見覚えがある?」
詩音は、一拍遅れて、首を横に振った。
「いいえ。ただ……それ、ルカのロッカーにも書いてあったって、誰かが言ってたような気がして」
「誰が?」
「……覚えていません」
言葉は平坦だったが、微妙な“間”があった。いぶきの目が、細くなる。
「それ、本当に誰かから聞いただけ?」
「……どういう意味ですか?」
詩音は顔を上げた。その表情に、怒りも悲しみもなかった。ただ、透明なまなざしだけが、いぶきを射抜いた。
いぶきは、軽く首を横に振った。
「いや、ただ……気になっただけ」
詩音はそれ以上、何も言わなかった。ただ、封筒に一瞥をくれると、机の上の譜面を丁寧に揃え、そっと重ねていった。
その動作の中に、不自然なものはなかった。けれど――完璧すぎる。過剰なまでの整理整頓、沈黙の選択。そして、「聞いたような気がする」という曖昧な言葉。
詩音は最後の一枚を整え終えると、いぶきに軽く会釈して、準備室を出ていった。
その背中は、小柄で頼りなげで、けれどどこか、決して侵入を許さない“境界線”をまとっていた。
いぶきは、手の中の封筒を見下ろす。
R.L.――その記号は、音ではなく、記憶のどこか深い場所を叩いたように思えた。
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