【第四十三章】 奈落と悟り

 放課後の音楽準備室。

 窓の外では、夕陽が斜めに差し込み、校舎の壁を淡く染めていた。

 だが、部屋の中の空気は、まるで陽射しの温度を拒むように、静まり返っている。


 ミユはスツールに座ったまま、目の前の机に視線を落としていた。

 サーバー室で判明したMACアドレスの偽装――あれは確かに突破口だったはずだ。

 けれど、そこから先が見えない。


「……何か、もっと直接的な証拠がないと、誰も追い詰められない」


 ひとりごとのように呟いたその声は、音楽室の壁に吸い込まれていった。

 机の上には、散らばったままの譜面資料。手がかりになりそうなものは、何もない。

 それが、今の焦りを余計に強くさせていた。


「これからどうする……?」

 思わずこぼれた問いかけに、返事はない。


 だが、完全な無音ではなかった。

 パソコンのファンが回る音。そして、カチカチと断続的に響くマウスのクリック音。


 視線を向けると、部屋の隅――小さなサブデスクに座ったいぶきが、黙々とモニターに向かっていた。


 さきほどからずっと、ひとりで何かをしている。

 資料をめくるでもなく、画面を操作している。けれど、何を見ているのかは見えない。

 モニターの角度が、あからさまにこちらを避けていた。


「……いぶき?」


 呼びかけると、彼は微かに肩をすくめたが、こちらを見ないまま返事だけを返した。


「……ちょっと、試してるだけ」

「なにを?」

「前に出てきた、“封じの旋律”のデータ。構造的に気になるとこがあってさ」


 ミユは眉をひそめた。


「構造……? 音じゃなくて?」

「うん。音じゃなくて、譜面そのもの。つまり──書かれ方。配置。順番。パターン」


 彼の声は静かだったが、その目はどこか、確信に近いものを見つめていた。


「……ねえ、それって。何か、見つけたってこと?」


 いぶきは、ようやくマウスを手放した。

 そして、プロジェクターの電源を入れながら、小さく頷いた。


「確信じゃない。でも……見える気がしてきた。名前が」

 続いて、いぶきは新たな譜面ファイルを開いた。

 かつて資料閲覧室で見つかった、破れかけたスコア。そこには不規則に配置された和音と、鉛筆で書かれたかすれた書き込みが残っていた。


「……この“封じの旋律”、ずっと気になってたんだ。特に──この部分」


 いぶきは指先で譜面の上段をなぞる。


「見て。和音の一番高い音……つまり、“頂点”だけを抜き出して、並べていくと――」


 プロジェクターの画面に、譜面の高音部だけを示す点が次々とマークされる。

 それらを線で結んでいくと、曲線が──やがて、誰の目にも明らかな文字を描き出した。


 《RUKA》


 さやかが、息を呑む。


「偶然かどうかは、わからない。でも、譜面はこう読める。音じゃなくて、“構造”そのものが意味を持ってたんだ」

 いぶきは静かに告げる。

いぶきは、もう一枚の譜面ファイルを開いた。


「さらに……ルカさんの時に残されていた譜面で、同じことをすると」


 画面に、新たな線が描かれていく。


 現れたのは、別の名前だった。


 《AYAME》


 文字が揃った瞬間、さやかが息をのんだ。


 「……順番、なの?」

 誰かが決めた名簿を、一音ずつなぞるよう 

 に。さやかの声が震えた。


 いぶきは答えるまでに、わずかに間を置いた。


「“曲を演奏するたびに、犠牲者の名前が浮かび上がる”ように仕組まれている」


 彼の声は、部屋のどこにも向かっていなかった。

 まるで、それ自体が譜面に向けた呟きのようだった。


「……これは封印なんかじゃない。“手順書”だよ」


 

 誰かがこの旋律を完成させ、演奏するたびに――次の名前が、譜面上に刻まれていく。

 それは、芸術という名を借りた連続殺人。

 楽譜という仮面をかぶった、確信犯の設計図


「誰が、“手順”を継いでいるのか。」

 いぶきの声もまた、静かに深い奈落を覗いていた。

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