【第四十一章】 歪められた鐘

 いぶきの表情には、かつてない焦燥がにじんでいた。

 事件が動き出してから、時間が経ちすぎている。手がかりは集まっているのに、決定打がない。

 そして、残された時間は、わずか三日になっていた。

「……詰んでるのかもしれない」

 机の前で呟いたそのとき、扉がノックもなく開いた。

「いぶき。ねえ、ちょっとだけ休憩しない?」

 ミユが、スマートフォンを片手に入ってきた。

 その顔には、いつもの穏やかな笑みがあったが、どこか無理をしているようにも見えた。

「おもしろいTikTok、あるんだよ。生徒会の子たちがふざけて動画を撮ったやつ。」

 いぶきは興味なさそうに画面をちらりと見たが、次の瞬間――

 背筋が、ピンと伸びた。

 スマホのスピーカーから流れる、あの音。

 チャイムだ。だが、それは明らかに――“高い”。

「……これ、事件の日の動画だよね?」

「うん。投稿はしてないけど、保存してたの。何か気になる?」

 いぶきは無言で立ち上がった。目に光が戻っていた。

「確認したいことがある。さやか先輩はどこ?」

 三人が向かったのは、校舎の地下。立ち入り許可のない“サーバー室”だった。

 さやかがすでに鍵を開けて待っていた。

「理事会用に、校内PAの“音源ログ”が残ってるって聞いたの。バックアップまで二重保存されてる。」

 暗い部屋。ラックにずらりと並ぶサーバーのうなり音だけが響く中、いぶきは素早く該当のフォルダを開く。

 「chime_temp.wav」というファイル名が表示されていた。

 更新日時は、事件当日の午後。

 メインフォルダには存在せず、仮の一時保存フォルダに、まるで消し忘れたゴミのように残されていた。

「学校のメインシステムは毎日、決まった時刻にチャイムを流す。でも……このファイルは手動で再生されたものだ」


 いぶきが言った。


「手動って……つまり、犯人がどこかでボタンを押したってこと?」


 ミユが顔を上げる。

 だが、いぶきは首を横に振った。


「違う。“仕込んだ”んだよ。前もって」


 数秒の沈黙。


「学校のチャイムは、通常“スケジューラー”っていう自動再生のシステムで鳴ってる。でも――事件当時、その自動再生は止められてた。たとえば“メンテナンス中”って名目で、タイマー設定を外しておくとか、方法はいくつかある」


 いぶきは画面を指しながら言った。


「で、その代わりに、PAサーバーの“手動再生”機能を使って、犯人が事前に仕込んだ“偽のチャイム音”を鳴らした。事件の前に設定しておけば、当日その場にいなくても、時間通りに流れるようにできる」


「じゃあ……それって、“別の経路”から流したってこと?」

 ミユが尋ねた。


「いや、逆だよ。同じ放送経路。だから、誰も気づかなかった。鳴ったのは“いつも通りの音”にしか聞こえなかったはず」


 言いながら、いぶきはサーバー画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「PAサーバーには、緊急放送用に“任意ファイルを再生できる”一時フォルダ”がある。……この前、行事用のマニュアルを読んでるときに、運用仕様を見つけたんだ。形式さえ整っていれば、システムは同じ放送経路でチャイムを流す。あくまで“音”を流すだけの話。……設備がその音を“どう扱うか”は、また別のレイヤーだけどね」


 ミユとさやかが顔を見合わせる。

 記憶が静かに巻き戻る。新聞部室。彼は確かに冊子を開いていた。

 分厚い冊子、ページの片隅に、小さく“PA運用規定”の文字が記されていたのをミユは思い出した。


 誰が読むとも知れない行事運営マニュアル。備品の一覧、設備の注意書き。まるで存在を隠すように、それは“ごく当たり前の情報”のなかに紛れていた。


 あの時、彼が手繰り寄せていたのは、ただの資料ではない。


“この建物の仕組みそのもの”だったのだ。


 いぶきはファイルをコピーし、イヤホンを装着する。

 一呼吸。

 再生。

 音が流れた。

 だが、その直後――いぶきの顔が、はっきりと変わった。

「……高い」

 断言だった。即答だった。いぶきの声に、わずかに鋭さが混じっていた。

「A=452ヘルツ。……本来のチャイムより、12セント高い。つまり、半音より少しだけ下。これは、“基準音”をずらしてる」

 彼は迷いなく画面を指さす。そこに浮かぶ波形データは、沈黙の中でも何かを語っているようだった。


「しかも、長さが29秒。通常は30秒のはず。音を短く、速く再生してる。そのせいで、音程も上がってる」


 その言葉に、部屋の空気がわずかにざわめいた気がした。いや、誰も声は出さない。ただ、見えない疑問が壁を這っていた。


いぶきは一度視線を落とし、口を閉じる。目を閉じ、ひと呼吸置いた。


「……たぶん、録音元の素材に、雑音が混じってたんだと思う」

 静かに続けたその声には、どこか犯人の背中を想像するような温度があった。

「だから再生速度を上げて、ノイズを飛ばした。そうすれば、耳障りな部分をごまかせる。

 その結果、音が少しだけ高くなった。でも、それがチャイムと“ほぼ同じ”周波数だから、誰も違和感を覚えなかった」

わずかに口元で笑った。

「犯人は、“意識しない人間には気づかれない”って、そこに賭けたんだよ」


ミユが小さく息をのんだ。その音が、サーバーの稼働音にかき消されそうになる。


「……再生速度を上げると、音が高くなるの?」

そう問い返す彼女の声は、答えを知りながら、それでも確かめたかったという響きを持っていた。


 いぶきは頷く。

「そう。再生速度と音程の関係は、絶対的なものだ。これは偶然じゃない。意図的にずらされたチャイム音だ」


 沈黙の中、ミユが呟いた。

「じゃあ……動画に入ってたチャイムは、本物じゃない?」

「そのとおり。本物のチャイムが鳴らないようにした上で、 “少し遅い時間に録音を流す”。それで、あたかも“その時間にチャイムが鳴った=零時だった”と錯覚させるんだ。」

 校舎のチャイムは、自動で鳴る。全校共通のサーバー管理下。

 もしそれを偽装するなら、“一時ファイル”を仕込んで再生させる以外に方法はない。

 だが、その一時ファイルは、消し忘れた。

 証拠は、すでに鳴っていたのだ。

 この音声ファイルが示すのは、“誰かが時刻をごまかす必要があった”という事実。

 音の証拠。それは、法廷でも通用する“録音物”としての価値を持つ。

「……あとは、“誰が”このファイルをサーバーに仕込んだか。」

 いぶきの声には、はっきりとした熱があった。

 「そして、“なぜ”」

 真実の鐘は、すでに鳴っている。

 だが、その音を鳴らしたのは――まだ、見えていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る