【第四十章】 封じられた語──“悟り”を綴る譜面

 夜の練習室に残された三人の姿は、まるで時を忘れた実験者のようだった。

 壊れた譜面。揺れる音。沈黙するメトロノーム。

 それらの現象がひとつの線で結ばれたとき、三人の間には、確かな“仕掛けの匂い”が漂っていた。

「……でもさ」

 ぽつりと、さやかが言った。

「この譜面、なんか不自然じゃない? 終わり方が、っていうか……まとまってない気がする。」

 その言葉に、いぶきとミユが顔を上げる。

 いぶきは黙って譜面を開き直し、視線を走らせた。

「……確かに。通常なら、4小節ごとに“終止形”──カデンツが来るはずなんだ。でも、この改変部分、そこだけ抜けてる。」

 赤ペンを握る手が止まる。

「ここ、ここも……こっちも。」

 いぶきは譜面の中から“空白の終止形”をいくつも抜き出して、付箋でマーキングしていった。

 すると、不可解なことに気づく。

「……偶然、じゃないな。これは。」

 彼はごくわずかに息を飲むと、マグネットボードに五線譜のコピーを並べて貼った。

 そして、空白部分の小節番号を縦に並べ、そこにそれぞれの小節の“第一音”を手書きでメモし始める。

「ミユ。これ、読み上げてくれる?」

「うん……『S』『A』『T』『O』『R』『I』……?」

 読んだ瞬間、三人の間に沈黙が降りた。

「悟り……?」

 さやかが、声を絞るように呟く。

「それって……何かの暗号……?」

 いぶきは、ペンを持つ手を止めずに言った。

「これは“アクロスティック”。縦読み暗号の一種。文章や歌詞に仕込むことはあるけど、楽譜に仕込むって……かなり高度な遊びだ。」

 ミユが首をかしげる。

 「なに、それ。暗号?」

 いぶきはうなずき、ホワイトボードを指さす。

「うん。これ、ただの譜面じゃない。……“音”を使った暗号になってる」

「音名ってAからGまでじゃなかったっけ? なのに、SとかOが出てくるの?」

 ミユが眉をひそめながら尋ねた。

 いぶきは微かに笑い、手元の赤ペンを動かす。

「いい質問だね」

 彼は譜面の上にそっと丸印を重ねる。小さな○が、規則的に並びはじめた。

「そう、英語の音名は『A』から『G』まで──つまりラからソまでの七つしかない」

 ミユが小さくうなずいた。

「じゃあ……『S』とか『T』はどこから来たの?」

 いぶきは一瞬だけ沈黙し、それからマグネットボードに目を向けた。

「うん。だからこれは“音”じゃなくて、“文字”で読ませてる」

 少しだけ間をあけて、いぶきは言葉をつないだ。

「まず、終止形が抜けてる小節だけを抜き出す。そして──」

 彼は指先で小節番号をなぞる。

「その“順番”をアルファベットに変換する。たとえば、12小節目ならアルファベットの12番目、“L”。そんなふうにね」

 さやかが息をのむ。

「小節番号が、文字になる……?」

「そう。つまり、“小節番号”を文字に変えて、その順に並べた結果が──この『SATORI』なんだ」

 いぶきは「空白カデンツ」の番号を指し示す。指先の先には、無機質な数字と、手書きのアルファベットが並んでいる。

「じゃあ、小節番号が並び順で、音は……記号みたいなもの?」

 ミユが、確認するように問いかける。

 いぶきはうなずく。

「ちょうど、クロスワードの仕掛けみたいなものだね。普通じゃありえない“音楽の抜け”が、逆にメッセージを浮かび上がらせてる。……偶然じゃない。これは、仕組まれてる」

「でも、誰が?」

 ミユの声に、いぶきは答えなかった。

 ただ譜面の“欠けた終止形”の意味を見つめていた。

「この譜面は、単なる“壊れ”じゃない。構造自体が、意図的に壊されている。そしてそこに、“悟り”という単語を浮かび上がらせている。」

 静かな練習室に、誰かの息遣いのような風が通り抜けた。

 それは、まだ音にならない“何か”がこの場に存在していることを、ささやくようだった。

「……“封印を解け”ってこと?」

 さやかが問う。

 だが誰も、肯定もしなかった。

 否定する勇気もなかった。

「……この譜面を書いた人間は、音楽で、世界に問いかけてる。」

 いぶきの声が、静かに締めくくった。

「芸術と、呪いの境界を。」

 その言葉は、三人それぞれの胸に、異なる温度で残った。

 恐怖、興奮、あるいは、得体の知れない予感――。

 譜面の中の“悟り”は、まだ沈黙を守っている。

 語り出すのは、次の鍵が揃ったときだ。

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