【第三十九章】 沈黙するテンポ、歪んだスコア
古びた練習室には、湿った楽譜の匂いが染みついていた。天井の照明がじりじりと唸り、まるでこの部屋が何かを言い渋っているようだった。
中央に鎮座するメトロノームがある。ここは七不思議のひとつ、黙るメトロノームのある部屋だった。
「“血の譜面”……」
ミユがそっと譜面を広げた。資料閲覧室で見つかった断片で、五線の上にはかすれた音符と、乾ききらない赤黒い染みが残されている。
いぶきは、机に寄ってそれを覗き込んだ。目を細め、小節の番号を確認しながら指でなぞる。
「……十六小節目以降だ。ここから旋律が、おかしい。」
赤いペンでいくつかの小節を囲む。
「音が……交互に半音ずれてる。上がって、下がって……これ、主旋律の“芯”が揺れてる。普通じゃない。」
「演奏したら、きっと気持ち悪くなるね。」
さやかが呟いた。
ミユが眉をひそめた。
「まるで、聴いてるうちに調子を崩すように……仕組まれてるみたい。」
「そう。しかも見た目も奇妙なんだ。半音ずれを連続で書くと、五線が“六声”みたいに見える。視覚でも混乱させる譜面になってる。」
いぶきの声には、わずかに興奮が混じっていた。
絶対音感を持つ彼にとって、これは歪んだ芸術であり、精密なトリックだった。
「……試しに、聴いてみる?」
ミユがスマートフォンと小型スピーカーを繋ぎ、該当部分を再生する。
不安定な旋律が、練習室の空気を震わせた。
次の瞬間――
「……止まった?」
さやかが指差した。
メトロノームが、わずかに揺れた後、ピタリと動きをやめていた。
「振動もないのに……なんで?」
ミユが近寄るが、手は触れていない。
「低周波……だと思う」
いぶきは静かに言った。
「聴こえないけど、感じる帯域。たとえば冷蔵庫が低く鳴ってるときに、胸がザワッとする感じ……。あの周波数がここで、出てる」
「そんなの……音楽で出せるの?」
さやかが顔を上げる。
「出せる。たとえば、A♭とG。103ヘルツと98ヘルツ。差は5ヘルツ。それが倍音で重なれば、17ヘルツ前後の差音になる。これ、人間には“聴こえない”けど、“感じる”」
「……じゃあ、旧講堂で“誰もいないのに、気配がする”って噂は――」
ミユが震える声で言った。
「幽霊じゃない……音だったの……?」
「そういうこと。誰かがスピーカーででも流していたんだろうね」
いぶきが譜面を閉じた。
「これは、仕掛けだよ。音で人間の感覚を揺さぶって、怪異に見せかける……。犯人は、この譜面で“空気”を操ってた」
三人の間に沈黙が流れた。
壊れた譜面――それは、ただのミスではなかった。
意図された“破壊”。
人を混乱させ、恐怖を植えつけるための、冷たい作為。
そして、その作為の先にあるものはまだ、語られていない。
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