【第三十八章】 最低音の彼方へ
二宮ルカのロッカーは、まだ誰にも割り当てられていなかった。
放課後の西館。人の気配は少なく、時折、部活動の掛け声が遠くにこだまするだけだった。
——カチリ。
扉は驚くほどあっけなく開いた。油の切れた蝶番の軋みすらない。まるで、何も拒まず、いつでも迎え入れる準備ができていたかのようだった。
中には譜面ファイルが数冊、厚手のノート、そして一通の封筒が置かれていた。
いぶきはまず、ノートを手に取った。ページをめくると、それは練習日誌だった。
几帳面な文字で綴られた練習記録。だが、ある日付のページだけ、筆跡が揺れていた。
《十月一三日 午前二時》
低い音が好き。深海よりも低い場所で響く音は、 誰の言葉より優しい。 ——でも、私はそこへ行けない。まだ、行けない——。
そのページだけが、水に濡れたように波打っていた。
にじんだインクの痕跡は、書き手の涙が紙に落ちたことを物語っていた。
「これ……」とミユが、日誌の端をそっとなぞる。
「濡れてる」
「ルカ、ここに気持ちを残してたんだ」
日誌をそっと元に戻し、次にいぶきは封筒を手に取った。白い紙の質感は少し古びていたが、丁寧に保管されていたことが伝わってきた。
封を開けると、中には小型のICレコーダーが一つ。
再生ボタンを押すと、まずノイズが耳を打った。風の音のようでもあり、どこかで鳴る換気扇のような、一定の低いうねりが続く。
そして——微かな少女の声が、それに重なった。
「——これが、私の“最低音”。誰にも聴こえないなら、安心して泣ける——」
音は、そこで途切れた。
ミユは息をのんだまま、動かなかった。 いぶきもまた、目を閉じるようにして、しばし沈黙に身を委ねた。
「ルカ……この音を、残したんだね」
ロッカーの隅に、もう一枚、紙の切れ端があった。 譜面ではなかった。そこには、手書きの数式のようなものが書かれていた。
正確には、それは“波”の図解と、数列、物理的な記号——まるで音響工学の講義で使われるようなものだった。
その数式の内容は、すぐには理解できなかった。ただ、構成の一部に“定在波”という語が使われていることから、何らかの“音響現象”に関係するメモであることは分かった。
不完全な、定在波。
一定の波長を持ちながらも、どこかに“歪み”がある。 それはまるで、誰にも気づかれなかった心の揺らぎのように。
「この紙、授業で配られたものかも……」
ミユがぽつりと呟く。
いぶきは、再び紙の隅に目を落とした。
そこには、アルファベットが小さく書かれていた。 それは単語ではなく、ただ二文字。
——R.L.
いぶきは言葉を飲み込んだ。
このメモが何を意味しているのか、その時点ではまだ分からなかった。だが、彼の胸の中に、確かな違和感が芽生えた。
——なぜ、ルカはこの紙をここに残したのか。
——なぜ、この数式を、彼女は“遺した”のか。
彼女は何かを託そうとしていた。
声にできない思いを、音に託して。
「行こう」
いぶきは、ロッカーを静かに閉じた。
ミユはその背中を追いながら、再び夜の廊下へと歩みを進めた。
遠く、校内放送の機器が微かなハウリングを起こした。
それは、彼女の残響のように、夜の静寂へと消えていった。
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