【第三十三章】 告白の記譜線
「……実は、アヤメさんの遺体が運ばれたあとで、衣装箱の裏からこれが見つかったの。さやか先輩が警察に黙って回収してたのよ」
志鶴ミユがポケットから何かを取り出す。
手渡されたスマートフォンは、表面に微細なひびを纏っていた。遺体のすぐそば、衣装箱の底に沈むように転がっていたという。
ミユがいぶきの方を見やった。
「電源は……まだ残ってる」
スリープを解除しようとしたが、すぐに四桁のパスコード入力画面が現れる。ごく一般的なセキュリティ設定だが、指紋や顔認証は登録されていなかった。
「番号……誕生日の順番か何か?」
ミユの推測に、いぶきはしばし画面を見つめたまま、無言だった。
そして、ぽつりと呟いた。
「E、A、D、G……」
「え?」
「ヴァイオリンの調弦。アヤメさんなら、きっと指が覚えてる」
いぶきは迷いなく、数字キーを押し始めた。
0──5──2──6。
画面が解錠された。
「……うそ。ほんとに?」
ミユの呟きに、いぶきは静かに頷いた。
フォルダ一覧の中に、ひとつだけ異質なラベルが目に留まった。
《VoiceMemo_最後の確認》。
タップすると、わずかに歪んだ呼吸音とともに、アヤメの声が再生された。
「これは、……もしもの時のために、録っておこうと思ったの。もし、私に何かあったらって。
ごめんね、ルカ。ほんとにごめん。あの譜面、私がやった。血が滲んだのは、私が準備したから。
カプセル、音で割れるようにって、印刷展示の試作を廊下で見てやり方を真似して。驚かせたくて、でもあんなに……怖がらせるつもりはなかった。
……私、ルカが羨ましかったの。
どうしても、そう思ってしまった。
あんなに素直に音楽に愛されて、まっすぐで……。
私には、それができなかった。
だからって、こんなことをしていい理由にはならない。
わかってる。
でもあのときの私は、悔しくて、情けなくて──ただ、あの譜面を、泣かせたかった。
誰にも言えなかった。言えば、全部壊れる気がして。
でも、自分の手で壊してたのよね。
お願い、これを聞いた人がいるなら、どうか……ルカに、ちゃんと、謝っておいてください」
声のトーンは一貫して落ち着いていたが、節々に感情の波が潜んでいた。ためらい、悔悟、そして怯え――それらが、不意に胸を締めつけてくる。
ミユは、息を呑んだまま動かない。いぶきもまた、画面を閉じずに、その余韻の向こうに立ち尽くしていた。
「……彼女、本当は、ずっと謝りたかったんだね」
「でも、そのチャンスすら、なくなってしまった」
声を絞り出すように、いぶきが呟いた。
しばらく沈黙が流れたあと、ミユがぽつりと口を開く。
「……こんなメモを残すなんて、アヤメさん……もしかして、自分に何かあるかもしれないって、感じてたのかな」
スマホは再びスリープに戻る。けれど、そこに刻まれた言葉は、どんな譜面よりも重く、鮮やかに彼らの胸に残った。
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