【第二十八章】 密室の周波数

 校内放送で告げられた“異変”は、学院祭の浮ついた空気をひととき止めていた。

 石膏像に紅い霧のような血飛沫。それが密室で発見され、その足元には御影アヤメの遺体。

 目撃者の多さも相まって、すぐに学院内は騒然となった。

 だが、その混乱をよそに、有馬いぶきはただ一人、あの部屋に漂っていた“違和感”を忘れられずにいた。

 午後四時、彼は再び問題の部屋を訪れていた。今は警備と教員の立入制限が敷かれ、誰も近づかない。だが、彼には許可が出ていた。さやかが新聞部として手を回したのだ。

「時間は十数分。それ以上は無理よ」

「ありがとうございます、助かります」

 床に転がるイーゼルを見つめ、いぶきはしゃがみ込む。木製の脚には、どこか引き摺られたような擦過痕が残っていた。

 鍵が開いていたにもかかわらず、ドアはびくともしなかった。単なるバリケード。しかし、問題は“どうやって”外からそれを成立させたのかだった。

 彼は立ち上がり、像の頭部に近づいた。

 その表面に、目を凝らすと──微細な“孔”が一つ、穿たれているのがわかった。


「三ミリ……いや、もう少し小さいか。凹みじゃない。これは……孔だな」


 孔の縁には、赤黒く乾いた何かがこびりついていた。指先で触れれば崩れそうなほど、もろくなっている。

 中を覗き込むと、折れたプラスチック片のようなものが、わずかに突き出していた。


「ストローの……断片? それに、インクの痕……」


 独り言のように呟きながら、いぶきの視線は、自然と像の足元、台座の下へと移った。

 床の一部。板張りの中に、一枚だけ質感の違う木材が混じっていることに気づく。

 年季の入った講堂の床に、明らかに浮いている一角。ほんのわずかだが、目立っていた。


 彼は手袋をはめ、慎重にその板を持ち上げた。

 裏面に、何かが貼りついている。小さな黒い装置だ。


 乾電池ほどのサイズ。

 どこかの機械から取り外されたような未処理の配線が、短くはみ出している。

 既製品には見えなかった。だが、それだけに、目的をもって用意されたものであることがわかった。


「……これは?」


 ミユが思わず、いぶきの背後から声を漏らす。

 いぶきは答えず、慎重に装置を取り出し、周囲に落ちていた微細な粉じんも合わせて封入用袋に収めた。


「音響機器かと思ったけど、スピーカーじゃない。音を鳴らすための“トリガー”……いや、再生ユニットだな。しかも、これは自動再生型。外部から操作されるのではなく、条件反応式だ」


 言葉にすることで、自分の中にある仮説が形になっていく。

 思考のなかで、音と振動、像と飛沫――それぞれの要素が、ある一点に収束してゆく。


 鞄の中から、いぶきはあらかじめ用意していた器具を取り出した。

 2ミリリットルのストロー。その中には、食紅と鉄粉を混ぜた、濃い赤の液体が満たされている。

 先端だけを、わずか0.3ミリだけ露出させてある。


 そのストローを、像と同じ高さの台座に固定する。

 そして、その下に、もうひとつの装置を置いた。


 振動センサー付きの再生ユニット。

 わずかな刺激に反応して、自動で録音された低周波──60Hzを流すよう設定されている。


 いぶきは、静かにミユに目配せした。


「机を、ほんの少しだけ揺らしてくれ」


 ミユが、机の端に指を添える。

 きしむような音すらしない、極めて弱い力だったが、装置はそれに反応した。

 かすかな低音が、空間に広がる。


 60Hz。

 可聴域のぎりぎり下。人の耳では捉えきれないが、確かに空気が震えていた。


 次の瞬間、机の上のストローがわずかに震え、内側の液体が波打つ。

 そして──弾けた。


 赤い霧状の飛沫が、前方へと細く、美しく広がった。


「……飛んだな」


 いぶきは呟きながら、霧の着地点を目で追った。

 まさに、像の正面。事件当時、“血”が飛び散っていた位置と、完全に一致していた。


 彼は手袋を外さず、ストローを慎重に回収する。

 内部には、赤い液体の残渣と、わずかな金属臭。

 折れた先端には、飛散防止の加工がされていた。外からは見えず、内部だけが細工されている。

「犯人は、像の内部にストローを仕込み、展示台の床下に“再生ユニット”を仕掛けていた。

ドアをこじ開けた微細な振動を感知して、低周波を再生し、像の中のストローから血のような飛沫を噴かせたんだ」


 ミユが、目を見開いて問いかける。


「じゃあ……あの“血”は、誰かがその場で飛ばしたわけじゃなかったんだ?」


 いぶきは静かに頷いた。


「そう。誰もいなくても、“音”さえ流れれば、血は飛ぶ。“血が飛んだ”という事実が、そこに“誰かがいた”と錯覚させた。でもそれは、たった数秒で成立する、“仕掛け”にすぎなかった」


 像が笑ったのでもない。

 誰かが殺したのでもない。


 ――あの血飛沫は、“像が殺人を喜んだ”と人に思わせるための、完璧な嘘だった。

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