【第二十二章】 インプロヴィゼーション

 学院祭の朝、高村詩音は誰よりも早く音楽棟の鍵を開けた。  

 何も変わらない朝。だが、彼女の胸には、わずかに針のような緊張が刺さっていた。

 実行委員として、詩音は音楽棟の管理を一任されていた。特別に配られた鍵は、職員を除けば彼女ひとりの権限だ。それは信頼の証であり、同時に責任だった。

 ロビーのピアノに触れかけて、ふと手を止めた。爪の先に残るわずかな震え。それは、自分でも気づいていた動揺の証だった。

 昨夜、譜面棚を整理していた時のことだ。ルカの名前が記された楽譜がひとつだけ、棚の隙間に残されていた。タイトルも、調性もなく、ただ数式のような記号列が並んでいた。  

 譜面の余白に、鉛筆で小さく「R.L.」とだけ記されていた。

 「……やらなきゃ」

 スピーカーの調整、コードの確認、椅子の配置。実行委員として、いつも通りの仕事をこなす。  

 けれど、周囲のざわめきとは別に、彼女の耳には雨音だけが響いていた。

 (もしあの時、もう少しだけ、あの子の話を聞いていたら)

 ルカの演奏には、音にならない言葉があった。わかる者にしか伝わらない音階の揺れ。詩音はそれを、誰よりも早く察知できると思っていた。  

 けれど、その彼女が――何も気づけなかった。

 「おはよう、高村さん」  

 背後から声がした。男子生徒が、音響機材を抱えて立っていた。

 「ありがとうございます。マイクは舞台のセンター寄りに置いてください。スピーカーは左右対称に。あ、低音がこもるから、少し浮かせて設置してくださいね」

 指示を出す自分の声が、いつもより一歩後ろにあるように感じた。

 ――まるで、舞台裏から指揮しているような感覚。

 誰も知らないが、詩音は昔から表舞台に立つことが苦手だった。音は得意なのに、演奏は苦手。人前に立つと、音が歪んで聞こえるのだ。

 だから、彼女は裏方に回った。音を整えること、伝えること。その支えになれるなら、自分の居場所はそこにあると思えた。

 「……詩音さん、あの……この曲、プログラムにないよ」  

 男子生徒がモニターを指さした。

 「え?」

 見ると、再生リストの末尾に、見慣れぬタイトルのファイルがあった。

 『for S』

 詩音の指が、一瞬だけ止まった。  

 開くと、それはルカが最後に録音した、未公開の演奏だった。

 音の入りは、やや不安定だった。けれど、途中から、明確に変わる。まるで、誰かに語りかけるような旋律。

 (……これって)

 指先が震える。自分の名前を冠したようなファイル。そこにどんな意図があったのか、もう確かめる術はない。

 だが、音が教えてくれる。彼女はその“温度”に、ただ耳を澄ませた。

 演奏が終わる。

 「詩音さん……? どうする、これ」

 詩音は静かに頷いた。  

 「……流してください。開演の合図に。これは、あの子の“最後の音”だから」

 その言葉を言いながら、自分の中に小さな終止符が打たれたような気がした。

 あの子が残したもの。その意味。その余韻。  それを感じることが、今の自分にできる唯一のことだった。

 会場の照明が落とされ、スピーカーから“あの音”が流れる。

 詩音は幕の裏で目を閉じた。

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