【第二十一章】 柘植の一日
学院祭当日、職員室は奇妙な静けさに包まれていた。普段の喧騒とは裏腹に、生徒たちは校舎のあちこちに散らばり、教師たちはそれぞれの持ち場で忙しく立ち回っていた。
柘植も例外ではなかった。
朝から何度も時計を見ていたが、それは時間に追われていたというより、何かを待っているような間だった。教師としての仕事はきちんとこなしている。だが、彼女の視線の端々には、何か別の“意図”がにじんでいた。
「……ああ、忘れ物か。ちょっと見てくる」
午前十一時過ぎ、職員室でそう呟くと、柘植はさりげなく席を立った。誰も気に留める者はいなかった。彼女の動きは自然だった。
向かった先は、理科棟の裏手だった。
人目につきにくいその場所で、柘植は手に持った鍵の束を確かめる。旧棟で使われていたタイプの、錆びた小さな鍵。事務室の古い棚から偶然見つけたものだった。
「使えるか……?」
試すことはなかった。ただ、それをポケットに入れ、建物の輪郭を見上げる。誰にも見られていないことを確認する仕草はなかったが、視線はどこか慎重だった。
旧講堂は、すでに立入禁止となってしばらく経つ。だが柘植には、あの場所にある種の“記憶”が残っていた。かつて、自分もこの学院に通っていた頃のこと。まだ教師になるなど考えてもいなかった時代、誰かが弾くオルガンの音に惹かれて、何度かその場を訪れたことがある。
音は、人を引き寄せる。
そして今、再びあの建物に近づこうとしている自分がいた。それが偶然か、あるいは意図的なものかは、自分でもはっきりとは言えなかった。
午後になり、体育館では演奏発表が始まった。生徒たちの演奏に交じり、過去に録音されたルカの演奏がサプライズとして流された。拍手と歓声が上がり、音楽棟が一瞬、温かな空気に包まれた。
柘植はその会場の隅で、静かにその音に耳を澄ませていた。表情は動かない。けれど、ポケットの中で指先がゆっくりと動いた。鍵を握りしめていた。
「……やっぱり、まだこの音は残っているんだな」
そう呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
柘植は音楽棟の裏手で一人立ち止まった。ふと、背後から気配を感じて振り返ると、御影アヤメがいた。
「……珍しいですね。先生がこのあたりを歩いているなんて」
アヤメは静かな口調で言った。その表情には、どこか探るような色があった。
「うん。ちょっと、昔を思い出してね。私も、ここで音楽を聴いたことがあるんだ」
「講堂の音、ですよね。今はもう、聞こえませんけど」
「いや――もしかすると、まだ誰かが鳴らしてるのかもしれない。……姿は見えなくても」
アヤメの目が、わずかに細められた。
「それは……“音の亡霊”みたいなもの、ですか?」
柘植は苦笑した。
「私ももう、幽霊と話す年齢になってきたのかもしれない」
アヤメは黙って、鍵の入った柘植のポケットに視線を落とした。だが何も問わず、そのまま背を向けた。
「お気をつけて。今日の夜は、風が強くなるみたいです」
「……ありがとう」
その背中を見送りながら、柘植はふと思った。
この学院では、音が記憶をつなぐ鍵になっているのかもしれない。
開けてはいけない扉も、鳴らしてはいけない音も。すべて、どこかにまだ残っているのだ。
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