【第二十章】 沈黙の余白にて
二宮ルカの事件の直前。校舎の灯がすっかり落ちた頃、真壁蒼汰は音楽棟の裏手にいた。
無表情。周囲の誰もがそう評する彼は、たしかに感情をあまり外に出さなかった。 だが心が空っぽなわけではない。ただ、その表し方を知らないだけだった。
その夜、彼が運んでいたのは、壊れたオーディオの代わりに用意された予備の機材だった。柘植から頼まれた、講堂の演出補助用。
彼は言われたとおりに運び、指定された講堂控室の隅にそっと置いた。特に誰かと話すわけでもない。だが、そこでふと、彼の手が止まった。
控室に残されていた、古いカセットテープ。 「Luka」──そう手書きされた白いラベル。 その綴りに、真壁の喉がかすかに鳴った。
それは、真壁にとって“特別”だった名前だ。
その存在は、いつしか彼の内側に静かに根を張っていた。演奏の音色、姿勢、そしてときおり見せる静かな笑顔。
恋、という言葉を使うには、真壁にはまだ早かったのかもしれない。
けれど、憧れとも羨望とも違う、明らかな熱がそこにはあった。
彼は迷いながらも、テープを再生した。
テープレコーダーは、壊れかけの音質で、ルカの歌声を響かせた。
透き通った高音。凛とした低音。どこか哀しみを孕んだ旋律。
その瞬間、真壁の時間は止まった。
(どうして、こんな音が出せるんだ)
羨ましいとすら思った。でも、それ以上に嬉しかった。自分のような無個性な人間でも、その音に共鳴できたという事実が。
だから彼は、そのテープをそっと戻した。 そして、誰にも気づかれぬように控室を出た。
その足取りは、軽くも重くもなかった。ただ静かに、自分の想いを胸に抱えたまま、真壁は夜の校舎を歩いた。
翌朝。 学院祭の開幕を告げるベルが鳴った頃、真壁は体育館の裏にいた。 賑わう校内の喧騒から逃れるように。
そこへ、柘植が通りかかった。
「……真壁くん、あの機材、昨日のうちに運んでくれてたんだね」
「……はい」
「講堂の控室、何か触った?」
一瞬だけ、真壁の肩がわずかに動いた。
「テープ、見ました」
「……ああ、ルカさんのだね。残ってたの、気づいてなかったな」
柘植はそれ以上は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
それから数時間後。 事件が起きた。
夜。旧講堂に立ち尽くす真壁の姿があった。 すでに封鎖され、立ち入り禁止のテープが貼られている。
だが彼は、その場所を見つめていた。
まるで、何かを確かめるように。
ふと、ポケットの中のイヤホンを取り出し、スマートフォンを操作した。
保存していた音声ファイル。
昨夜、あの控室でこっそり録音した、ルカの声。
彼は再生ボタンを押した。
そして、静かに目を閉じた。
(音だけは、嘘をつかない)
彼は誰にも話さない。
あの夜、自分がどこで何をしていたか。
なぜなら、それを言葉にするには、あまりにも不器用すぎたから。
ただ、心の中で願っていた。
その声が、誰かに届いていてほしいと。
それだけだった。
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