【第十九章】 修繕計画

 あのとき、御影アヤメは、旧講堂に対して複雑な感情を抱いていた。学院の代表として日本代表にも選出される実績を持ち、学院の顔とも称される彼女は、表舞台では毅然とした姿勢を貫いていたが、静かな時間の中でふとした瞬間に、旧講堂の記憶が蘇ることがあった。

 その建物は、築六十年を超えていた。木造の梁には細かな亀裂が走り、床はきしみ、扉の蝶番は重たく錆びついていた。昼間に見ると古めかしく、どこか埃っぽい。しかし夜の旧講堂はまるで別の表情を見せる。

 校舎の灯が落ちた後、アヤメは何度か、音に引かれて旧講堂の近くを通ったことがある。夜の静寂の中にかすかに響く音。ピアノでも、ヴァイオリンでもない。オルガンのような深い、包み込むような響き。それが誰の手によるものかはわからなかったが、その音色には不思議な温度があった。

 ある日、教頭から非公式な打診があった。

「旧講堂、取り壊しの方向で検討が進んでいる。使用実績も少ないし、あれ以上の維持は難しい」

 アヤメはその言葉に、どこか釈然としないものを覚えた。

「でも、生徒の中には、あそこを使っている子もいると聞きます」

「知っている。問題視もされている。安全上もルール上も、放置はできない」

 合理的で、正しい判断。それは間違いない。けれども、自分自身が何かを失ったような感覚が胸を締めつけた。

 この講堂を維持するためには、大規模な修繕を計画して、上を納得させるしかない。

 ある日、旧講堂で、ひとりの生徒が倒れていた。修繕計画を共に計画していた後輩のルカ。

 死因は心室細動。詳細な要因は不明だが、校内での事故として処理された。

 アヤメは、その報せを聞いた瞬間に、立っていられなくなった。なぜ、あの時もっと深く考えられなかったのか。自分が無力だったのではないかと、自責の念が押し寄せた。

 その日の夜、アヤメは旧講堂へ向かった。警告テープが張られ、扉には施錠がされていた。中に入ることはできなかったが、扉に手を触れたとき、かつて聞こえた音が、風に混じって耳に届いたような気がした。

 旧講堂が、ただの古い建物ではなかったことを、アヤメは知っていた。そこには、生徒たちの思いが確かに存在していた。安心できる場所、自分を表現できる空間。

 それでも、彼女は何も言わなかった。学院代表として、沈黙を貫くことで守れるものがあると信じていた。

 だが、胸の奥底に残る罪悪感だけは、消えることがなかった。

 旧講堂の前に立ち尽くすアヤメの姿は、夜の静寂に溶けていった。誰にも気づかれることなく、ただ、失われた音に耳を澄ませていた。

 早く、この講堂を復活させないと。


 御影アヤメが扉を引きかけたとき、後ろから小さな足音が追いついてきた。


 「……アヤメ」


 振り返ると、篠宮理玖がいた。書類の束を抱えたまま、軽く息を切らしている。


 「講堂の……修繕計画、やっぱり進めるんだな」


 アヤメは一瞬だけ口を開きかけたが、少しだけ間を取って言葉を選んだ。


 「ええ。この建物は老朽が進みすぎている。安全基準を満たすには、もう――。」


 「でも、まだ音は生きてる。……この反響、あの天井の木の響き。俺は……この講堂の音響が、好きだ」


 篠宮の声には、いつになく熱があった。珍しいことだった。


 「わかってる。私も、ここで聴いた演奏は忘れられない。でも、音だけが空間じゃないの。響きを残すために、命を危険にさらすわけにはいかない」


 「新しい建材じゃ、この音は出ない。……それって、もう同じ場所じゃないってことじゃないか?」


 アヤメは目を伏せた。けれど、表情はどこか決意に満ちていた。


 「たぶん、あなたが守りたいのは“音”。私は――“意味”なの。ここが、生徒にとってどういう場所だったのか。……だからこそ、変える覚悟が要るのよ。新しい時代に、残すために」


 篠宮は黙ったまま、講堂を見つめた。やがて、ほんの少しだけ笑うような声が漏れた。


 「……アヤメは、強いな」


 アヤメは何も返さなかった。

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