【第十八章】 仮面の肖像
風が学院の丘を吹き抜けた頃、構内はまるで熱に浮かされたような賑わいを見せていた。
中庭には仮設ステージが組まれ、美術科の生徒が脚立の上で横断幕を結んでいる。吹奏楽部の金管が何度も音を外し、仮装した演劇部員が廊下を走り回る。講義の鐘も届かぬほど、構内はざわめきに満ちていた。
その空気に背を向けるように、いぶきは静かな足取りで音楽棟へ向かっていた。
途中、廊下の突き当たりで女生徒の悲鳴があがった。振り向くと、演劇部の男子が血まみれのような姿で立っていた。もちろん、それは食紅だった。お化け屋敷の衣装らしく、着古した制服の胸元には、手作業で描かれた裂傷のような赤が滲んでいる。
――祭りの熱気の裏で、血を模す遊びが日常になっていく。
いぶきは目を細め、歩みを再開した。
音楽棟の前。窓際に佇んでいた一人の女子生徒が、いぶきの姿を認めて振り返った。
「あなたが、有馬いぶきくん?」
整った顔立ちに張り詰めた気品が漂っていた。背筋はまっすぐで、身にまとう空気すらよどみがない。
「そうですが、あなたは……?」
「御影アヤメ。三年生、ヴァイオリン科」
自己紹介というより、肩書きの提示に近かった。だが、その名はすでに耳にしていた。学院の顔。コンクールの日本代表。石膏像の“モデル”になった才媛。
彼女は制服の胸元に手を添えたまま、こちらを一瞥した。
「ルカのことで話があるの。少しだけ、いいかしら?」
二人は中庭を離れ、校舎の裏手にある藤棚のベンチに腰を下ろした。周囲の喧騒が少し遠のく。
「旧講堂の件。あなたが関わっていると聞いたわ」
唐突な切り出しだった。いぶきは特に否定も肯定もせず、相手の目を見つめ返す。
アヤメの声は平坦だったが、わずかに視線が揺れていた。計算された感情の揺らぎ――それが演技か、本心か、判別はつかない。
「私は、ルカとあの場所の修繕計画を進めていたの。あの旧講堂はいい音が出るから。ルカが亡くなった次の日、いっしょに調査に立ち会う予定だったのよ。だけど、あの子は……もういなくなってしまった」
いぶきは、そっと問いかけた。
「彼女とは、どういう関係だったんですか?」
アヤメは少しだけ口元を引き締め、吐き出すように答えた。
「指導係。……それ以上でも、それ以下でもない」
沈黙。
秋風が、校舎の角を抜けて藤棚を揺らした。葉の擦れる音が、会話の余白に入り込む。
「彼女の死については、どう思いますか?」
いぶきの問いに、アヤメは即答しなかった。やがて、その瞳がいぶきの目をとらえた。
「自殺じゃないと思ってる。ただ、それを声に出すと、足元をすくわれる。――この学院では、ね」
そう言いかけて、ふと記憶を探るように視線を泳がせたアヤメが、ぽつりと続けた。
「そういえば……事件の前の晩、私は音楽棟の裏で真壁くんを見かけたの。あの無表情な一年生。手に大きなBluetoothスピーカーを抱えていて、どこかへ運んでいるようだった」
「真壁が……?」
「彼、音に異常にこだわっているでしょ。あの夜、講堂付近で何か“仕掛け”をしてたんじゃないかって、ちょっと気になっていたの」
アヤメの視線は淡々としていたが、その発言は確かに波紋を残した。
ベンチから立ち上がったアヤメは、最後にこう付け加えた。
「言葉は仮面になる。でも、音は嘘をつけない。だから私は、ヴァイオリンを選んだのよ」
その背中は、どこか孤独だった。
「もし、何か進展があったら教えて」
喧騒の中へと再び姿を消していくアヤメを見送りながら、いぶきは思った。
――彼女は、どこまで知っているのか。
音に残る痕跡。閉ざされた講堂。歪んだ譜面。
だが、すべては喧騒にかき消された。
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