【第十七章】 旧寮の鏡(後編)
鏡の前に立ったその瞬間、空気がわずかに歪んだ気がした。
湿った冷気が、皮膚に貼りつくようにまとわりついてくる。
いぶきはライトを掲げ、わずかに目を細めた。
鏡の中には、自分の姿があった。
だが、それは完璧な反射ではない。立ち姿も、表情も、どこか微妙に違っていた。
「……これ、映像じゃない?」
ミユがぽつりと漏らす。
よく見れば、その鏡像はわずかにタイミングがずれている。
まるで、数秒前の自分を“再生”しているかのように。
詩音が、眉を寄せて鏡の縁に手をかけた。
「……こういうの、正式な科学用語じゃないけど、“記憶の残滓(ざんし)”って呼ばれることがあります。強い感情や出来事があった場所では、物質表面や空気中の粒子に何らかの変化が生じて、それが映像として再現されることがある――そういう仮説を立ててる研究者もいるくらいです」
「それ、科学なの?」
ミユが驚いたように訊く。
「まだ未解明の領域です。でも、実験記録は実際にあります。誰かの目には見えないけど、たとえばこの鏡には、長年の“何か”が刻まれてるのかもしれないですね」
いぶきは息を整えて、鏡をじっと見つめた。
鏡像の中の自分は、不安げにあたりを見回していた。
その視線の先に――
「……誰か、映ってる」
声に出したのは無意識だった。
それは、制服姿の少女だった。
長い黒髪、白い肌。しかし、顔はぼやけており、判別がつかない。
鏡像のいぶきが、その肩に触れようとする、そのとき。
「ダメッ!」
詩音が叫び、いぶきを後ろから引き戻した。
次の瞬間、鏡面が水面のように揺れ、その像はすっと消えた。
空気の重さだけが、場に残される。
沈黙の中で、さやかが呟いた。
「……あれ、多分、最初にここで亡くなった子だと思う」
ミユが振り返る。
「ここ、旧寮が閉鎖された理由って、火災じゃなかったんですか?」
「公式にはそう。でも実際には、火災の前にひとりの生徒が……。鏡の前で倒れて、それ以来この部屋は使われなくなったらしいわ」
詩音が眼鏡を直しながら言葉を継ぐ。
「それで、あの七不思議。“鏡の中に、誰かが立っている”って」
「……ただの噂じゃなかったんだな」
いぶきが額に手を当て、軽く息を吐いたそのとき――
ふたたび鏡が、淡い光を帯びた。
今度は誰の姿も映さず、代わりに、ぼんやりとした文字が浮かび上がる。
《あなたの“最後の音”は、どんな音?》
誰も声を出さなかった。
数秒の沈黙のあと、詩音がぽつりと漏らす。
「これって、“選ばれた”ってことなのかな」
「違うわ」
さやかが静かに首を振った。
「多分、“聴く耳を持つ人”だけに向けられる問いなのよ」
ミユが声を震わせながら言った。
「……これ、答えないといけないの?」
その言葉に、いぶきはわずかに口元をほころばせた。けれど、その笑みには静かな覚悟がにじんでいた。
「いや、逆さ。これは“試し”だよ。音を受け止める準備があるかどうかを試してる」
彼の声は落ち着いていた。
「問いかけてきたのは、答えを求めてるんじゃない。“向き合う覚悟があるか”を見てるだけだ。逃げるなら、それも選択。けど……耳を澄ませば、たぶん、何かが変わる」
そう言って、彼は静かに鏡へ言葉を送った。
「俺の最後の音は、“約束”の音だ。……だから、ルカさんの事件を、ここで終わらせるわけにはいかない」
その瞬間、鏡は静かに光を失い、ただの古びたガラスに戻った。
詩音が、安堵したように微笑む。
「……ちゃんと、自分の言葉で応えたんですね」
さやかも小さく頷いた。
「これで、この七不思議も一区切りかも」
ミユが少し笑って言った。
「でも、これ以上の七不思議は、しばらくお休みでいいかな」
いぶきはゆっくりと鏡から視線を外し、つぶやいた。
「今日はひとつ、確かめられた。……音は、ちゃんと届く。怖がらずに聴こうとすれば――」
それは、彼の中に今も残る“後輩の音”への、静かな敬意でもあった。
そして、その夜を最後に、鏡に現れる光は、二度と記録されることはなかった。
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