【第十六章】 旧寮の鏡(前編)

 ――それは、決して覗いてはいけない鏡だった。

 旧寮に残された「音楽部屋」。いまや使われていないそこには、大きな姿見がひとつ、ぽつんと残されていた。高さは天井近くまであり、木枠には蔦の彫刻が刻まれている。古びたガラスにはひびが走り、まるで何かを閉じ込めているような冷たさがあった。

 その鏡には、奇妙な噂があった。

――鏡に映った自分が、動かなかったら。 ――鏡の中で、背後に誰かが立っていたら。

 それは"旧寮の七不思議"のひとつであり、生徒の間では語り継がれる都市伝説だった。


 ある日曜。校舎の裏手にある旧寮の鍵が、ひっそりと開けられた。

「……本当にここ、入ってよかったんですか?」

 詩音が不安そうに口を開く。淡い月明かりが、彼女の白い頬に影を落とした。

「鍵はさやか先輩が借りてきたんだから、大丈夫」

 ミユが軽い口調で返すが、その声にもかすかに緊張が混じっていた。校則上は立入禁止。ただし、生徒会の許可があれば“調査”という名目で侵入できる。

「七不思議の一つ……例の鏡、ほんとにあるのかな」

 いぶきが懐中電灯を持ちながら、埃をかぶった廊下を進む。彼の後ろには、さやかがついてきていた。表情は変わらないが、足取りは確かだ。

「私は見たことある。あの鏡」

「えっ、先輩……いつ?」

「中等部のとき。旧寮での清掃当番で……そのとき、偶然」

 さやかの声は、静かに響く。

「動かない鏡の中の私が、ずっとこちらを見ていた。……それから一週間、声が出なくなった」

 沈黙。

 詩音が、ごくりと喉を鳴らした。


 四人は奥の階段を降り、地下の音楽室へとたどり着く。

ガチャリ。

「……開いた」

 さやかが押し開けた扉の先に、古びたグランドピアノと譜面台、そして部屋の奥に例の鏡が立っていた。照明は落ちており、懐中電灯の光が鏡面に反射して細く揺れる。

「……これが」

 ミユが思わずつぶやいた。

「近づかないほうがいいですよ。噂では……」

 詩音の声が震える。だがいぶきは、構わず鏡へ近寄った。

「この鏡、どこか変だ」

 彼は指先で木枠に触れ、埃を払った。すると、木枠の内側に小さく彫り込まれた文字が浮かび上がった。

《Cadenza》

「カデンツァ……?」

 ミユがつぶやく。

「音楽用語だよ。自由に演奏する即興部分……でも、なぜここに?」

 いぶきが答える。

「音楽室だから、じゃない?」

 ミユが答えたが、いぶきは首を振る。

「この鏡……ただの鏡じゃない。何かが映ってる」

 彼がそう言ったとき、鏡の中で微かに影が揺れた。

「今、何か……!」

 詩音が叫ぶが、すぐに背後を振り返っても、誰もいない。

「いや……鏡の中の詩音、さっきから一度も瞬きしてない」

 ミユの声がかすれる。

「やっぱり……これ、七不思議っていうより、何かの“記録装置”じゃない?」

 いぶきが静かに言った。

 鏡の奥、ガラスの裏側に、“記憶”のような何かが閉じ込められている。

「もしかすると、この鏡……“最後にこの前に立った人間”の姿を、永遠に映し続けているのかもしれない」

 四人の視線が、鏡の奥に吸い込まれていった。

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