【第十五章】 理科室エレクトリック・ブルース

 理科室の空気は、いつもどこか金属的だった。酸性薬品の名残、埃を含んだモーターのにおい、そして、今この瞬間のように微かに漂う焦げた樹脂の匂い――その全てが、旧式の蛍光灯の下で白く均された。

「で……これ、本当に実験?」  

 ミユが机の端に腰をかけながら尋ねた。顎に指を当て、どこか疑念混じりの視線を放っている。

「静電気の発生実験、だそうだ」  

 いぶきが傍らのプリントを見せながら答える。その口調は淡々としているが、視線の先では他の生徒たちが何やらアルミ箔と塩ビパイプをこすり合わせている。

「静電気か。懐かしい響き。中学の頃、髪が逆立ったまま下校した日があります」

 控えめな声が理科室の奥から聞こえた。

 高村詩音の声だった。

「空気が乾燥してると、静電気はよく起きるね」  

ミユが言うと、詩音は小さく頷いた。

 理科準備室から、白衣姿の三枝先生が顔を覗かせた。年齢不詳、無駄に低音の効いた声の持ち主で、理科教師にありがちな“奇抜さ”を内に秘める人物だ。

「おお、やってるやってる。……で、どうだ? 火花は散ったかね?」

「先生、それって……比喩ですよね?」  

 ミユが苦笑混じりに返すと、三枝は肩を竦めた。

「いやいや。静電気ってのは、立派な放電現象だ。雷と同じ原理だよ。大気中の分子が一斉に通電するあの瞬間の美しさときたら――」

「先生、それ一歩間違うと感電事故ですよ」

 いぶきが遮るように言い、プリントを畳んだ。

「そこをちゃんと管理するのが我々教育者の務め、というわけだ」  

 三枝が軽口を叩きながらも、装置のセッティングを細かく見直していく。

 その日、挑戦していたのは、静電誘導を利用した放電モデルの再現だった。帯電球、オシロスコープ、電荷測定器――全ては簡易なものであったが、意気込みだけは一流だった。

「電極の間隔、これじゃ狭すぎるな」  

 いぶきが呟きながら、机上の金属棒を少しずらす。

「波形、出てきた」  

 詩音が表示装置の前に座り、静かに言った。指先が微かに震えている。表示された波形は緩やかなカーブと、突如跳ね上がるピークを繰り返していた。

「これ……ノイズ、かな?」  

 ミユが身を乗り出して覗き込む。

「……違います。今の、人工的なパルスです」

 詩音の声には、確信に近い何かが滲んでいた。

 その瞬間、室内の蛍光灯が、一斉に点滅した。

 教室全体が、息を呑む。天井の光が一瞬消え、再び点いたとき、そこには一種異様な静けさがあった。

「……今の、完全にオーバーフローしてたな」  

 いぶきが静かに言い、オシロスコープのメモリを確認する。

 三枝先生は、まるでそれすら愉しんでいるかのように頷いた。

「いいか、電気ってのはな、人の目には見えないが、感覚だけは正直に反応する。ビリっとくるあの瞬間、肌が先に察知するんだ。音も同じ。波形も、心拍も、全てが“電気の顔”をしている」

「……先生って、たまに詩人ですよね」

 ミユが苦笑を浮かべる。

「詩じゃなくて、理論だよ」  

 三枝が真面目な顔で返す。

 いぶきはそのやり取りを聞きながら、どこか遠い目をしていた。

「電流音……」  

 ぽつりと、いぶきが呟いた。

「……あの夜の講堂にも、確かに音があった。……機械音じゃない、もっと不規則で、皮膚の裏に響くような」

 ミユと詩音が、その視線の先を追う。

「電気の音って、わかる?」と、いぶき。

「ビリっていうより……チリチリ、ですかね」

 詩音が指を擦り合わせながら答えた。

「蛍光灯が壊れかけたときの音に、ちょっと似てる」

 理科室に、再び静寂が訪れた。

 ふと、詩音が波形をじっと見つめながら、小さく呟いた。

「……このピーク、なんだか不気味ですね。心電図に似てる……とか言ったら、変ですか」

「心電図?」

 ミユが目を丸くする。

 詩音は少し肩をすくめた。

「祖母が入院していた時、病室で見たことがあって。波形が乱れるとき、こういう音、鳴ってた気がする」

 三枝が興味深そうに頷いた。

「なるほど、そういう連想は悪くない。音と電気、波形と鼓動。全部つながってるのかもしれん」

 いぶきはその会話を静かに聞いていた。

 心拍のように――緩やかに、そして突然、跳ね上がる波。

 三枝が腕を組み、ゆっくりと頷いた。

「理科ってのは、実験がすべてだ。答えがわかるのはいつも“あとから”なんだよ」

 その言葉は、妙に重く響いた。いぶきは黙ったまま、波形の残像を見つめていた。

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