【第十一章】 誰もいない第八音楽室

 ――深夜になると、誰もいないはずの第八音楽室から、ピアノの音が聴こえる。

 そんな噂が、七不思議のひとつとして校内に語り継がれていた。

 ……誰が最初に言い出したのかは、もう誰にもわからない。

 ただ、“あの音”を聞いて気を失った生徒がいた、という尾ひれだけが、今も残っている。

「第八音楽室って、鍵かかってるのよ? それなのに毎晩、零時になると演奏が聞こえるって――本物だと思わない?」

 放課後の帰り道、九条さやかが妙に楽しげに言った。

「またですか……」

 志鶴ミユが呆れたように返す。

 けれど、わずかにその足が鈍ったのを、有馬いぶきは見逃さなかった。

「見に行こうよ。今夜、零時ぴったりに」

 さやかが言う。

 ミユは顔をしかめた。

「管理人に見つかったらどうするんですか」

「見つからないって。だから“七不思議”なんでしょ? 誰も近づかないから、いつまでも残ってるだけよ」

 さやかの口調には、どこか軽い挑発のようなものが混じっていた。

 いぶきは軽く眉を上げる。探究心というより、直感に近い。

 何かが静かに、音もなく軋む――その感覚だった。

「……行ってみてもいいかもな」

 そう言った自分に、いぶきは少し驚いていた。

 ――午前零時。

 旧校舎の廊下は、まるで息を潜めるような沈黙に包まれていた。

 音を立てれば、それがそのまま闇に呑まれてしまいそうな、質量のある静けさ。

 三人は足音を殺し、旧館の奥へと進んでいく。

 いぶきは途中、壁際の温度計に目をとめた。

 “蒸気系統作動中”という赤いランプが、かすかに点滅している。

「……まだ動いてるんだな。古いのに」

 その先では、銅製の配管が壁の中を這っていた。

 ところどころ結露しており、低く、わずかな音が伝わってくる気がする。

「音、伝わりそうな材質だな」

 いぶきは誰にともなくつぶやく。

「もう帰ろうってば……」

 ミユが何度目かの小声を漏らした。

 さやかが懐中電灯で時計を照らしながら、足を止める。

「ほら、もうすぐ零時よ」

 第八音楽室の扉は、古びた木製で、鈍く鈍色に光っていた。

 ドアノブには南京錠。明らかに、誰も入れないよう施錠されている。

 だが――その瞬間。

 中から、ぽつりと音がした。

 誰もが息を止める。

 単音だった。低く、重い。

 けれど、確かにピアノの“鍵盤の音”だった。

「……鳴ってる」

 ミユの声が震えた。

 続いて、ゆっくりと和音が立ち上がる。

 旋律というより、何かが“音を探るように”響いていた。

 ぎこちなく、だが“そこに気配がある”と錯覚させるには十分だった。

「嘘……」

 さやかが腕時計を見る。

「零時、ぴったり……」

 いぶきは扉に耳を当てる。

 冷えた木材の感触が頬に伝わった。

 背後でミユの呼吸が浅くなっていくのが分かる。

 ――鍵はかかっている。

 誰もいないはず。

 けれど、演奏だけは続いていた。

 いぶきはポケットから、小さな聴診器を取り出す。

 扉の下部にそっとカフを当て、耳を澄ませた。

 「……これは、打鍵の音じゃない」

 微細な振動が、耳奥に届いた。

 鍵盤の衝撃音ではない。むしろ、“外から共振している”ような音だった。

「どういう意味よ……?」

 ミユが掠れ声で問う。

 いぶきは旧校舎の壁を叩き、耳を近づける。

 低くうねるような音。

 そこに流れていたのは、41.2Hz――E₁。ピアノの最低音域。

「共鳴してる……この音楽室のピアノが、“どこかの音源に反応してる”んだ」

 そのとき――ミユの記憶に、ふと一年前の話がよみがえった。

「あの頃の調律師、変わってたなぁ。なんか、実験器具とか残してったらしいよ」

 確か、音楽の柘植先生が、そんな話をしていた。

「それだ」

 いぶきの声が低く震えた。

 一年前に退職した調律師が、旧館の暖房系統に実験装置を組み込んでいた。

 温度制御と音響振動の関係を調べるための、超低周波発信装置。

 「普通なら、あんなふうに共鳴はしない」

 いぶきは天井を見上げた。

「たぶん、ピアノの一部を調整してたんだ。――誰かに聞かせるためじゃなく、“試験のために”、ね。弦を少し緩めて、鍵盤にダンパーがかからないようにしてたんだと思う。音に反応しやすくなるように」

 彼の目には、遠い過去の実験装置が残した“名残”が見えているようだった。

 ボイラーが夜間モードに切り替わるのは、午前零時ちょうど。

 そのタイミングでポンプの出力が最低となり、機械系の“うなり”が特定周波数を生む。

 偶然、それがE₁=41.2Hzと一致していた。

 廊下を這う銅管が、それを拾って響かせる。

 銅は柔らかく、振動をよく伝える。

 そしてそれが音楽室の壁を通り、ピアノの響板(共振板)に達して――音を生み出していたのだ。

 誰もいないはずの部屋に、演奏が響いた理由。

 その正体は、旧設備と偶然が生んだ、“無人の共振装置”だった。

「……管がスピーカー、ピアノが共鳴板ってことか」

 いぶきはスマートフォンを取り出し、発振アプリを開いた。

 周波数を45Hzにずらして再生する。

 その瞬間――室内の音が濁り、軋むように揺らぎ、やがて消えた。

「共鳴を、外したのね」

 さやかが小さく言う。

 いぶきは、リュックから布を取り出し、銅管と壁の継ぎ目に丁寧に挟み込む。

「……伝わる場所を断つだけで、共鳴は止まる」

 その金属音は、かすかに鈍く変化した。

 いぶきは銅管に、マジックで小さく×印をつけた。

 それはまるで、“もう二度と鳴らないように”という封印のように見えた。

「音は、嘘をつかない。ただ、聞く側が整っていれば――ね」

 その夜を境に、“誰もいない演奏”は、二度と戻ってくることはなかった。

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