【第十章】 窓のない部屋

 その旧校舎の三階、右端の教室には、ひとつだけ“窓のない部屋”がある。  

 そう生徒たちは噂していた。

 けれど、校舎の外から見れば、そこには確かに窓がある。反射するガラス、ブラインドの影。だが中に入った者は、口をそろえて言うのだった。

 「……あの部屋、窓が、ないんです」

 誰もが冗談としか思わない。そもそも、その部屋は物置として施錠され、普段は立ち入れない。  

 けれど、それでも、ときおり鍵が開いているときがあり、運悪く(あるいは運良く)入ってしまった者が、決まって口にするのだ。

 「白いカーテンだけが、風もないのに、揺れていた」と。

     

 放課後、新聞部の部室。  

 いぶきとミユ、さやかの三人がテーブルを囲んでいた。

 「それ、本気で言ってるんですか?」と、いぶきがあきれたように眉を上げる。

 「ええ。聞き込みしたの、三人。みんな同じこと言ってたのよ」  

 さやかは、自分のノートをめくりながら、淡々と続けた。

 「入ったのは別々の時期。ひとりは去年の学院祭準備中、ひとりは掃除当番中、もうひとりは……なんと教頭先生」

 「教頭が?」

 ミユが目を丸くした。

 「あの堅物が?」

 「ええ、“鍵をかけ忘れていた”とかで、たまたま開けたら……」

 さやかはノートの端に挟んだメモを抜き出し、読み上げた。

 「――“なんだか、吸い込まれるような白い布が揺れていた。窓はなかった。風もなかった”」

 沈黙。

 いぶきは、鼻を鳴らして笑う。  

 「教頭も、疲れてたんだよ。見間違いだって」

 「じゃあ見に行く?」

 さやかが言った。

 「今なら、理科部が実験やってるって話だから、警備も緩いはず」

 いぶきとミユは顔を見合わせた。

 「どうせまた、原稿締切から逃げたいだけじゃないですか?」  

 「違うってば。ちゃんと取材よ」

 ミユがふと、いぶきを見て言った。

 「でも、いぶきって、七不思議とか、あんまり興味ない人かと思ってた」

 「うん、オカルト話はそこまで。けどさ……“仕組み”としては面白いと思ってる」

 いぶきはそう言って、鞄から一冊の厚い冊子を取り出した。

 「学院の行事運営マニュアル。学院祭や修学旅行の手順が書いてあるやつ」

 いぶきが、ページをぱらぱらとめくりながら続ける。

「サーバーの仕様とか、意外と込み入ってる。ほら、音響まわりだけじゃなくて、照明の配電図とか、各教室の備品リストまで載ってる」

「備品リスト?」

「うん。旧校舎の鍵の保管場所とか、発電機の点検時期まで書いてある。なんで生徒に配ってんのか謎だけど」

「へえ……」

ミユは適当に相槌を打った

「そういうの、暇なときに読むの?」

 ミユが呆れたように言った。

 「まあ、ちょっと気になっただけ。学校って意外と知らないことだらけだからさ」

     

 旧校舎の三階。

 足音を立てずに上がっていく階段。

 夕暮れが、窓のガラスを赤く染めている。  それでも例の部屋の前に立つと、空気が変わったように感じられた。

 鍵は、かかっていなかった。

 「……開いてる」

 ミユが声を潜める。

 いぶきが先に立ち、ドアノブをゆっくりと回す。

 ギィ……と軋む音とともに、扉は開いた。

 そこは、ただの教室だった。  

 埃をかぶった机が四つ。壁際に古い黒板、時計は止まったまま。

 けれど、確かに“窓”が、なかった。

 「え?」いぶきが言った。

 外から見たとき、確かにこの部屋には窓があるはずだった。  

 だが、壁にはブラインドすらなく、ただ白いペンキが塗られた面が広がっている。

 「……そんな馬鹿な」

 ミユが教室の隅を指差した。

 そこに、一枚の白い布が揺れていた。

 天井から吊るされた、レースのように薄いカーテン。  

 けれど、周囲に窓はない。  

 外気は届かない。空調も止まっている。だが、布だけが、微かに揺れていた。

 「……揺れてる」

 さやかが、スマートフォンで録画を始める。

 「これ、誰かが仕込んだのかも。モーターとかで」

 いぶきは、半ば無理やり自分を納得させるように近づいた。  

 だが、カーテンの向こうに立ったとき、ぞくり、と背筋に何かが走った。

 布の内側に、何かがある。

 反射的に手を伸ばす。

 白い布をめくる。

 そこには。

 “窓”があった。

 いや、正確には、窓“だった”跡。

 コンクリートで埋められた窓枠。周囲にはヒビが走り、かすかにレンガの跡が見える。

 「……なに、これ」

 ミユが呟いた。

 「封鎖された……ってこと?」

 調査は、翌日も続けられた。

 資料室で、さやかが見つけたのは、40年前の校舎改修記録だった。  

 「三階第三教室。事故により窓部材撤去、封鎖。壁面修繕済み」

 事故。

 「1978年、強風で窓ガラスが落下。清掃中だった女子生徒が、頭部を……」

 記事の切り抜きが添えられていた。

 少女の名前は、記録から削られていた。

 ただ、その下に、旧校舎に今も保管されている卒業アルバムの寄せ書きが写っていた。

 『あの歌、もう一度聴きたかったな』

 静かに、何かが結ばれたように思えた。

 いぶきは、例の教室の入り口に立った。

 「……ここに、“窓”を、戻していいですか?」

 返事はなかった。だが、それで十分だった。

その日以降、白い布が揺れることは、なかったという。

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