【第九章】 肖像画の瞬き

 放課後の美術棟は、誰もいなかった。

 音楽が日常の大部分を占めるこの学院において、美術系の設備はほとんど飾りのような扱いを受けている。

 絵画室の一角には、かつて音楽科と合同で開催されていた「創作祭」の記録が、今も埃をかぶったまま並んでいた。

「……これ、全部、歴代の卒業生か」

 いぶきは肖像画の前に立ち止まった。

 格式ばった制服を着た男女の油絵が、縦一列に並んでいる。表情は硬く、筆致はどれも古風だ。

「一番奥の人、誰だか知ってる?」

 そう尋ねたのは、さやかだった。

 新聞部の資料室を掃除していたら、あるメモが出てきたという。

『七不思議 第二番――“瞬く肖像画”。

午後六時、旧絵画室にて、肖像画の瞳が動いた。

被写体は、1968年度卒・東雲(しののめ)エリカ』

「東雲エリカ……?」

「歌手になった人。けっこう有名だったらしい。でも若くして事故で亡くなって、それ以来、ここの美術棟で妙なことが起きるって噂が立ったの」

「噂、って?」

「絵の目が動く。瞬きする。ときには“泣いていた”って証言もある」

 いぶきは目の前の肖像画を見つめた。

 確かに、絵の中の女は不自然なまでに“こちらを見て”いた。

 絵の具の硬さではない。目の中に宿る、説明できない“意志”のようなもの。

 

 その瞬間――背後で、小さな音がした。

 カチリ。

 時計の針が午後六時を指していた。

 いぶきが反射的に振り返る。

 部屋にあるのは、肖像画、長机、古い木製椅子。そして――空白の気配。

 「……今、風、あったか?」

 「ない」とさやかが首を横に振る。ミユも何も言わない。ただ、視線だけが肖像画に吸い寄せられている。

 誰かが言った。たぶんミユだった。

「……いま、瞬き……した?」

 部屋の温度が、わずかに下がったように感じられた。

 

 いぶきは、肖像画に一歩近づいた。

 その眼差しが、絵として“描かれたもの”ではなく、“どこかから投影された感情”のように感じられた。

「いや……描きかたが違う。これ、目だけ修復されてる」

「え?」

「この筆のタッチだけ違うんだ。瞳のハイライトが、他の部分と合っていない。――誰かが、あとから“目だけ描き直した”」

 

 さやかが眉をひそめる。

「それってつまり、誰かが“目を動かして見せる”ために手を加えたってこと?」

「可能性としてはある。でも、それが“誰かのいたずら”にしては、あまりにも手が込んでる」

「じゃあ、まさか本当に幽霊が……」

 その瞬間、部屋の照明がふっと落ちた。

 一瞬だけ、天井の蛍光灯が点滅したように見え――再び明かりが戻った。

 誰もが無言で動きを止めていた。

 その静寂の中、さやかが低く呟いた。

「……ねぇ、有馬くん。あの絵、目線、こっち向いてなかった?」

 いぶきは言葉を返せなかった。

 その問いに答えた瞬間、何かが確定してしまう気がしたからだ。

 

 風もない、音もない。

 だが、確かに“誰か”の視線がそこにあった。

 それは絵に込められた残留思念なのか、それとも――もっと別の、意図された視線なのか。

 

 いぶきは絵に背を向け、部屋を出た。

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