【第十二章】 告解の前奏曲

 翌朝、いぶきは講義の合間に、一人で講堂裏の中庭にいた。

 椅子もベンチもない、植栽の手入れも忘れられた、雑草交じりの半円形のスペース。

 だが、ここからだけは旧講堂の裏手が斜めに覗けた。塔屋のステンドグラス、釘で打ちつけられた扉、そして――オルガンの音が漏れたという小さな換気口。

 ふと、背後から気配がした。

「昨夜の“演奏”が止まったの、ちょうど午前零時だったよね?二宮ルカが死んだのも、同じ時刻。偶然だと思う?」

 いぶきが答えないうちに、さやかは封筒を差し出した。紙はやや古び、角が折れている。

「“血を流す譜面”――七不思議の中で、まだ深く掘り下げてなかった。でもね、私は見つけたの。……あなたにだけ見せたいものがある」


 彼女は封を切ることなく、いぶきに視線を送った。


「旧講堂の“オルガン譜”について調べてたんだけど、面白い話が出てきてね。あれが“血を流す譜面”って呼ばれるようになったのには、理由があるみたい」


いぶきは視線を落としたまま、わずかに眉を動かした。


「事件とは、別の話……?」


「ずっと前――二十年くらい前の話。ある生徒が、オルガンで古い曲を練習してたらしいの」


少し、間を置いてから続けた。


「その子、突然教室から飛び出して、“譜面が泣いた”って言ったんだって」


「……泣いた?」


いぶきの声は抑えられていた。


「そう。楽譜の上に、赤いしずくが浮き上がったらしいの。でも、演奏者自身にはケガもなかったし、どこから出血したのかも不明だった。ただ、譜面には確かに血のような染みが残ってた――って、当時の音楽教師が記録してる」


いぶきは封筒を見つめたまま、しばらく黙っていた。


「その曲……何だったかは?」


「不明。でもね、“旋律が途中で破綻していた”って書かれてた。コードが崩れて、調が迷って、音が“泣き出すように”変わった――って」


彼女の声が一段低くなった。


「……それ以来、学院では“血を流す譜面”って呼ばれるようになったんだって」


「じゃあ……事件で血を流したのは、“その譜面を使ってたから”?」


「まだ断定はできない。でも、怖いのはね――この“血の譜面”、誰が書いたのか、未だにわかってないの」


 風がわずかに吹き、封筒の端が揺れた。

 いぶきはふと、譜面というものの“性質”について考えていた。

 誰かの手で書かれ、誰かに演奏される。

 だがその間に、“何か”が挟まることはないのか。

 旋律とは、伝達手段ではなく、“媒介”でもありうるのではないか。

 

「有馬くん、あなたは二宮ルカの件、幽霊のせいだと思う?」

「……まだ答えを出すには早いと思ってます。

 ただ、音は人間の心と身体に影響を与える。

 それが偶然じゃなく“設計されたもの”なら――無視できない」

「設計、って?」

「音には責任がある。少なくとも、俺はそう思ってる」

 

 さやかはふっと息をついた。

「やっとその顔になったわね。有馬いぶき。

 ……あなた、幽霊の正体を暴きたいんじゃなくて、“音の正体”を暴こうとしてるのね」

 いぶきは何も答えなかった。

 けれどその沈黙は、逃避ではなく、決意の沈黙だった。

 

 中庭にはまた風が吹いた。

 旧講堂の屋根を越えて、どこか遠くから、“聞き覚えのある旋律”が微かに流れてきた気がした。

 それは誰かの記憶なのか。誰かの願いなのか。

 あるいは、ただの風の錯覚なのか――。

 

 だがいぶきは、その音を確かに“聴いた”と感じた。

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