【第七章】 沈黙する旋律
その男は、音を見ていた。
篠宮理玖――三年生、作曲科主席兼生徒会会長。“音を形にすることにかけては学院随一”と、誰もが認める存在だった。
講評室のグランドピアノの前で、彼はひとり譜面に向き合っていた。
目を細め、五線の上を指でなぞるその動きは、まるで“旋律の骨格”を透かしているかのようだった。
「それ、あなたが書いた曲?」
いぶきの問いかけに、篠宮は顔を上げた。
表情に驚きはなかった。むしろ、誰かが来ることを予想していたような目だった。
「違う。これは、死んだ子が使っていたスコアの一部だよ。旧講堂で録音された演奏の断片。
譜面に起こしてみたら、調が崩れてた。普通じゃない書き方だ」
「普通じゃない、というのは?」
「音が“意味を持ちすぎている”。感情や情景じゃない。……もっと原始的な、警告みたいなもの」
いぶきは、その言葉に一瞬だけ沈黙した。
“音が人を殺す”とは思っていない。
だが、“音で壊れる”ことなら、知っていた。
まだ中学の頃だった。
指導者の期待に応えようとした彼は、自分の音感を絶対視し、他人にも押しつけた。
ある日、後輩の少女が、彼の助言どおりに歌い続けた結果――声を失った。
喉ではなく、心の方が、だ。
その日から彼は、自分の音を嫌うようになった。
「君、有馬いぶきだろ」
篠宮の声に思考を引き戻される。
「絶対音感を持ってて、でも今は音楽を捨てたって聞いた」
「……捨てた、とは言ってない。ただ、弾く理由がなくなっただけです」
「でも、今こうして調べてる」
篠宮の目はまっすぐだった。
「音楽を離れたのに、なぜまた音に近づこうとしてる? ――怖いもの見たさか?」
いぶきは否定しなかった。
それは違うと簡単に言えるほど、自分の気持ちを整理できてはいなかった。
ただ、ひとつだけ言葉が浮かんだ。
「……音には、責任があると思ってる。
音を出すってことは、誰かに何かを与えることだから。それが誰かを壊したなら――もう一度、向き合わなきゃいけない気がしてる」
篠宮はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「その考え、嫌いじゃない。……でも、音の責任って、どこまでが演奏者のものなんだろうな」
「それを考えるためにも、俺はまだこの音を追いかけます」
会話はそこまでだった。
だが、その短いやり取りの中に、互いの背負ってきた“音の重さ”が滲んでいた。
いぶきが講評室を出ると、廊下の奥にミユの姿があった。
彼女は何も聞いていなかったようで、ただ一言だけ言った。
「顔、少しマシになったね」
「そうか?」
「うん。少なくとも、逃げてる人間の顔じゃない」
いぶきは答えなかった。
答える代わりに、胸ポケットの中の録音機をそっと握った。
“あの音”の正体を突き止めることが、過去の自分と向き合うことになる。
それは、亡霊の正体を暴くことと、どこかで同じ意味を持っているような気がしていた。
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