【第八章】 雨宿りカデンツァ
それは、突然の夕立だった。
授業を終えた午後の学内は、どこか弛緩した空気をまとっていた。
チャイムが鳴り終えてからすでに十分以上が過ぎているのに、生徒たちは帰ろうとしない。
理由はひとつ。雨だった。
広いグラウンドの向こうに立つ購買棟の前。古びた屋根の庇(ひさし)の下で、ミユは一人の後輩と並んで立っていた。雨の匂いを吸った制服の袖が、どこか重く感じられる。
「……困ってるんです。音はわかるのに、読めないんです」
後輩の少女、高村詩音は、申し訳なさそうに言葉をつないだ。肩までの黒髪が雨に濡れて頬へ張りついている。
その目は真剣だった。軽い愚痴ではない、本当の悩みなのだとわかる。
「“ド”が聞こえたら“ド”って答えられる。でも、五線譜の“ド”を見せられると、なんか……違うんです」
ミユは「絶対音感って、そういうものだっけ……」と曖昧にうなずきながら、うまく返す言葉を探していた。
音の学校に通っている以上、音に関する悩みは日常茶飯事だ。それでも“音がわかりすぎて混乱する”という相談は、少し珍しかった。
そこへ、傘を片手にいぶきが現れた。
無造作に肩へかけたバッグから、譜面ファイルがはみ出している。濡れないよう、上着で覆っていたらしい。
「お疲れ。……雨、強くなってるね」
そう言って、二人のそばに傘を差し出した。三人が並ぶには狭いが、庇の下ならなんとかなる。
ミユが後輩の悩みを小声で伝えると、いぶきは「なるほど」と頷いて、後輩の方を見た。
「それってさ、たぶん“譜面が言葉になってない”からじゃないかな」
詩音が瞬きをした。いぶきは続けた。
「たとえば、“ありがとう”って聞いたとき、すぐ“ありがとう”って意味がわかるでしょ? でも、もしそれを外国語で言われたら、知ってても一瞬考えるかもしれない」
「……はい」
「絶対音感って、“音”としては正しく聞こえてる。でも“譜面”はあくまで文字だから、そこに意味を結びつけないと、感覚とはズレるんだよ。五線譜って、言葉で言えば“文字”みたいなものだから」
詩音は、黙っていた。けれど、うなずき方がほんの少しだけ強くなったように見えた。
雨は、ますます強くなっていた。
購買の屋根を打つ音が、カンカンと高く響く。遠くの体育館では、まだ誰かが打楽器の練習をしているらしく、バスドラムの低音が地を這うように伝わってきた。
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
詩音の声は、庇に反響して小さく跳ね返る。
「簡単な方法がある。……歌ってみればいいんだ」
「……え?」
「見た音を、そのまま“声”にしてみる。ピアノを使ってもいいし、リコーダーでもいい。大事なのは“音”じゃなくて、“譜面に意味を与える作業”を繰り返すこと。……言葉の“読み書き”と一緒だよ」
詩音の目が、ほんの少し明るくなった。
「……それなら、できるかも」
ミユがふと視線を上げる。
購買のガラス扉の向こうに、棚を整えているおばちゃんの姿が見えた。パンの棚の奥、冷蔵庫の中ではスポーツドリンクの瓶が青く光っている。
この校舎には、音がある。
人が歩く音、誰かが歌う音、遠くの教室から漏れてくるチューニング音。
そして今は、雨が奏でる音が、そのすべての上に降り積もっている。
まるで、静かなカデンツァのように。
詩音は傘を受け取り、小さくお辞儀をして言った。
「ありがとうございました。……がんばってみます」
いぶきは首をかしげた。
「ううん、がんばらなくてもいい。楽しんで、分かればそれでいいよ」
詩音はまた、少しだけ笑った。
そして雨の中へと、軽やかに駆けていった。
ミユがぽつりとつぶやく。
「いぶき、たまに先生みたいなこと言うよね」
「……先生は、言葉が足りない時あるけどね」
からかうような笑みを浮かべながら、ミユは傘を差し出した。いぶきもそれに応じ、ふたりで庇を出た。
雨音が、傘の上を叩く。
そのリズムさえも、どこか旋律のように感じられた。
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