【第六章】 血の譜面
音楽棟の二階、資料閲覧室。
昼下がりの陽が斜めに差し込むその場所は、他の教室に比べてやけに静かだった。誰も使わなくなった五線譜の書籍や理論書が、埃をかぶったまま棚に並んでいる。
「この部屋、旧譜面保管庫だったらしい」
さやかがそう言って、ひとつのキャビネットを指さした。
ミユが無言で頷く。いぶきは、その扉に手をかける前に、部屋全体に一度目をやった。
――空気の匂いが違う。
古い紙の、わずかに甘い酸化臭。だがそれだけではなかった。
湿度も温度も、どこか“音”のない空間のそれだった。
誰かがずっと黙って座っていたような、時間の淀みが残っていた。
「ちょっと変な話なんだけど……」
さやかが静かに言った。
「亡くなった子、ここにも通ってたみたいなの。譜面をよく借りてたって」
「何の譜面を?」
「合唱曲。旧講堂で使われてた曲のスコア。校内じゃもう誰も歌わない曲ばかり」
キャビネットを開けると、古い譜面の束が無造作に詰め込まれていた。
その中に、一冊だけ――封筒に入れられたものがあった。
封筒はやや黄ばんでおり、「二宮ルカ」と細い文字で名前が書かれている。
いぶきが封を切り、中を取り出す。
そこには、一曲の合唱譜が丁寧な手書きで記されていた。紙の隅には修正の跡。
だが、異変はその“中央”にあった。
――五線譜が、にじんでいた。
にじんでいるというよりも、滲んでいた。
赤黒く、筆圧とは無関係な形で、譜面の上に垂れたような跡。
音符はところどころかすれており、にじみがまるで“涙の軌跡”のように五線を伝っていた。
さやかが、わずかに声を低めた。
「この譜面、事件の後に見つかったんじゃない。――事件の前、ルカが“譜面が血を流した”って言って、この部屋を飛び出した日があったの。それからずっと、ここに放置されてたのよ」
「先生たちは誰も信じなかった。でも、あの子は本気で怯えてた。“この曲を歌っちゃいけない”って」
いぶきは譜面の旋律に目を凝らす。
ゆったりとした四分の四拍子、中声部の不自然な動き。
拍の進行に合わせて、突然現れる短調の転調――その不協和は、あまりにも意図的だった。
「……この旋律、おかしいな。調が定まってない。
誰かが途中で書き換えたような……いや、“壊した”ような感じがある」
「それ、幽霊の仕業だと思う?」
さやかの言葉に、いぶきは答えない。
だが、その譜面から感じた違和感は、音楽的なものだけではなかった。
曲の構造が、まるで“何かを封じるための鍵”のように見えたのだ。
楽譜が、旋律ではなく**“封印”として存在している**ような――そんな異様さ。
そのとき。
部屋の奥にあった古いピアノが、ひときわ大きく軋んだ。
誰も触れていない。
風も、揺れもない。
だが、まるで何かが“立ち上がった”ように、蓋が少しだけ跳ねた。
三人は同時に沈黙した。
そして――もう一度、ゆっくりとピアノの蓋が閉じた。
「……今の、聴こえたよね」
ミユの声が、微かに震えていた。
「うん」
いぶきは短く答え、譜面を封筒に戻した。
幽霊は、そこにいるのか。
それとも――幽霊“のように”見える何かが、この校内に仕掛けられているのか。
いぶきの中で、その境界線が、少しずつ揺らぎ始めていた。
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