【第三章】 新聞部と声のない証言
昼休みの鐘が鳴ると同時に、教室の空気が緩んだ。
いぶきは譜面を閉じ、静かに立ち上がる。入学初日から授業に出る必要はなかったが、「いずれやるなら、早い方がいい」という自己判断だった。
周囲の生徒たちはいぶきの存在に気づいているが、誰も声はかけてこない。音楽学校という場所では、“他人の音”より“自分の音”が優先されることが多い。
「いぶき、食堂行く? それとも――」
隣の席から、ミユが問いかけてくる。
だが彼は、首を横に振った。
「行きたい場所がある。付き合ってくれる?」
「……もしかして、新聞部?」
いぶきは肯定とも否定ともつかない表情を浮かべた。
ミユは小さく肩をすくめる。
「いいけど、覚悟してね。あの先輩、オカルト全開の人だから、話すと現実感なくなるよ」
新聞部の部室は、旧校舎の裏手にある資料庫の一角にあった。
「文化系クラブ」と名のつく団体の多くは新校舎にスペースを持っているが、新聞部だけは例外だった。理由は簡単で、「先輩の趣味」だという。
木の扉をノックすると、すぐに中から返事があった。
「開いてるわよ。どうぞ」
入った瞬間、いぶきは“空気の密度”が変わるのを感じた。
本棚、スクラップ、古い校内地図。室内には過去が折り重なるように積み重なっていた。
そして、その中心にいる人物がいた。
新聞部部長、九条さやか。
三年生。長い黒髪にメガネ。白いカーディガンの袖口から覗く指は、意外にも楽器を弾く人間のそれだった。
「……あら。新顔じゃない」
さやかは、いぶきをひと目見るなり、にやりと笑った。
「有馬いぶきくん。合ってる? ――絶対音感を持つ“元・神童”。最近、音楽辞めたって聞いてたけど」
いぶきは微かに眉を動かしたが、表情は崩さない。
「新聞部は、警察より情報が早いらしいね」
「まあ、音楽学校の“怪談”は、警察が扱わないから」
さやかの言葉には、冗談のようでいてどこか刺すような響きがあった。
ミユは後ろでため息をついている。
「何の用?」
「事件のこと。詳しく知りたい。旧講堂で亡くなった生徒のことも、それ以外の“七不思議”も」
「単なる噂話じゃ満足できないって顔してるわね。いいわ、有馬くん。ちょうど“聴いてほしい音”があったところよ」
さやかは、机の引き出しからICレコーダーを取り出した。
電源を入れると、微かなノイズのあとに“ある音”が流れ始めた。
――コォォォ……。
風の音のようでもあり、低いうなり声のようでもある。
聞こえるか聞こえないかの狭間にある、限界ギリギリの振動。
いぶきの表情が、わずかに変わった。
「……これ、どこで?」
「旧講堂。事件の三日前。亡くなった子が“何かが聴こえる”って訴えてた時期。録ってたの、私よ。正直、ふざけ半分だった。――でも、今は少しだけ、後悔してる」
さやかは指先でレコーダーを止めた。
「私には、正直よくわからなかった。でも、彼女は“背後に誰かが立っている気がした”って。……これ、“音”なんだと思う?」
いぶきは、しばらく考えてから答えた。
「……“誰かの呼吸”みたいに感じた。音というより、もっと身体に近い感じ。……耳じゃなくて、皮膚が反応してるみたいだった」
さやかの目が細くなる。
「やっぱり。あの子が言ってたのと、同じ」
いぶきは、それ以上の言葉を返さなかった。
その沈黙が、むしろ答え以上に多くのことを語っていた。
「あの子、旧講堂が好きだったんだ。夜、誰もいない空間で、オルガンを弾きながら、思いっきり歌えるからって。……たぶん、その日も、いつもみたいに、ひとりで演奏して、ひとりで歌ってただけ。で、死因は心室細動。怖いものでも見たときの反応、ってわけ」
誰に聞かせるでもなく、さやかはぽつりとそう漏らした。
その言葉が空気に滲んで消えるまでのあいだ、誰も何も言わなかった。旧講堂の天井を伝う微かな雨音だけが、静かに時間を区切っていた。
いぶきは、ふと少女の残像を思い浮かべた。夜の講堂。薄闇の中、オルガンの椅子に座り、ペダルに足をかけ、指を鍵盤に添える少女の姿――。
あまりに静かで、あまりに無防備だった。
そんな静寂を破ったのは、出口に向かいかけたさやかの声だった。
「そうだ、有馬くん。あなた、夜中に起きていられる?」
いぶきは振り返る。その声音には、先ほどまでの沈鬱さとは別の、どこか試すような温度が宿っていた。
「……どういう意味?」
「“次の音”が鳴るとしたら、それは深夜零時よ。七不思議の“第1番”――《 午前零時の血の譜面 》。
――聴く覚悟があるなら、今夜、旧講堂まで案内してあげる」
その提案が、何を引き寄せるかを、この時のいぶきはまだ知らなかった。
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