【第四章】 深夜の調律

 時計の針が、零時を告げようとしていた。

 寮の廊下は、夜になると別の建物のように静まる。

 生徒たちはすでに就寝時間を迎え、それぞれの部屋の灯りも落とされていた。

 しかし、ひとつだけ、影が動いていた。

 有馬いぶきは、スニーカーの紐を締め直すと、足音を立てぬように寮の非常口から抜け出した。

 手には小型の録音機。軽くて古いタイプだったが、マイク性能は悪くなかった。

 この夜に備えて、ミユがこっそり用意してくれたものだった。

 外は濃い霧が出ていた。山の天気は変わりやすく、昼とはまったく違う景色を見せる。

 あたりは深い湿気に包まれ、木々の葉がかすかに揺れている。

 遠くの方で、どこかの建物の排気口が不規則に唸っていた。

 

 旧校舎と旧講堂を繋ぐ渡り廊下に、九条さやかは既にいた。

 旧講堂へ行くには、この渡り廊下を通るしかない。

 さやかは白いコートを羽織り、ポケットに両手を突っ込んだまま、じっと建物を見上げている。

 姿勢はまっすぐだが、そこにあるのは好奇心ではなく、もっと深く、複雑な感情だった。

「時間通りね。有馬くん」

「あなたの方が早い」

「案内役だから。今日は特別に、警備の人に廊下のシャッターを開けてもらったの。……もちろん、こんなこと、誰にでも許されるわけじゃない」

「……いったいあなたは、どうやって?」

「新聞部って、取材でいろいろ知れちゃうのよ。あの人――夜勤の警備員さん、昔ちょっとした“こと”があってね。記事にはしなかったけど、内容は忘れてない」

 さやかはわずかに口元を歪め、笑みともつかない表情を見せた。

「だから今日だけ。例外中の例外。中には入らないって約束も、あの人との間で交わしたルール」


少し間が空いてから、彼女はふっと目を細めた。


「事件のあと、旧講堂は“学院の管理下”に置かれたの。保守目的を除いて、生徒も教職員も原則立ち入り禁止。勝手な出入りを防ぐために、監視カメラも設置された」



 その言葉には、記者らしい冷静さと、どこか皮肉めいた響きがあった。


 いぶきは頷きながらも、静かに戦慄を覚えた。

 この人は、情報の使い方を知っている。しかも、それを隠しもせず平然と使う――新聞部という立場は、想像以上に“武器”だった。

 講堂の扉の前まで歩く。近づくにつれ、建物の古さがより際立って見えた。

 外壁には雨の染み跡が複雑な模様をつくり、木の縁はところどころが腐食していた。

 しかし、その傷みがむしろ、この建物を“何かの記憶”のように見せていた。

 

 零時、ちょうど。

 いぶきは耳を澄ませた。

 最初は何も聴こえなかった。

 ただ、あまりにも“静かすぎる”ことが、逆に奇妙だった。

 風が止み、遠くの音も消えていた。

 世界全体が、何かを待っているようだった。

 

 次の瞬間――“それ”は、始まった。

 低く、重く、這うような音だった。

 正確には音と呼ぶべきかも分からない。振動に近い。空気の底が微かにうねる。

 講堂の中から、確かに何かが“鳴っていた”。

 だがそれは、旋律ではなかった。

 調和を持たず、ただ“存在を主張する”ような響き。

 いぶきは息を止め、耳ではなく、身体全体でその気配を感じ取ろうとした。

 音が皮膚を撫で、髪を揺らす。

 呼吸のリズムが乱れる。

「……どう?」

 さやかが囁くように言った。

 いぶきは答えない。答えられなかった。

 これは音ではない。“何かの意志”だと感じてしまった瞬間、理性の輪郭がぼやけた。

 講堂の中に、誰かがいる。

 視線のようなものを、確かに感じる。

 けれども、扉の向こうに気配はない。

 あるのは、ただの古い建物――のはずなのに。

 

 不意に、音が途絶えた。

 ぴたりと。まるで、こちらの気配に気づいたかのように。

 その一瞬の静寂が、最も恐ろしかった。

 音が鳴っている間は、まだ“何かが起きている”と分かっていられた。

 だが音が消えたとたん、いぶきは孤立した。

「……終わったみたいね」

 さやかが小さく息をついた。だが、その表情にはまだ緊張が残っていた。

「ねえ、有馬くん。今の、“ただの古い建物のきしみ”に聴こえた?」

 いぶきは黙ったまま、録音機の停止ボタンを押した。

「……録れてるかどうか、分からない。

 でも確かに、“音ではない何か”が、そこにいた」

「そう。なら、次は“それ”が誰かに何を伝えようとしているのか――それを探る番ね」

 さやかの言葉に、いぶきは小さくうなずいた。


 退去の際、いぶきの靴裏に焦げた松脂のような匂いがほんの一瞬だけ移り、彼は首を振って立ち去った。

 それは、演奏も終わったはずの講堂が、なお何かを“燃やし続けている”ような匂いだった。

残響のように、熱と気配だけが足元にまとわりつく。

 

 その夜、彼の夢には音はなかった。

 だが“気配”だけが、ずっと耳の奥に残り続けていた。

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