【第二章】 七不思議の系譜
来客室と呼ばれるその部屋は、新校舎の一階奥――事務棟と練習棟の境に、ひっそりと配置されていた。革張りのソファはやや硬く、窓はぴたりと閉じられ、外気を遮断している。壁に掛かった表彰状は色褪せ、誰のものかを気にする者もいない。
いぶきは制服の上着を脱ぎ、黙ってソファに腰を下ろした。隣に立つミユは、窓の外をときおり気にしている。
「担任、遅いね」
「別に、急いでるわけじゃないから」
口調は穏やかだが、いぶきの内心にはわずかな苛立ちがあった。湿気を含んだ空気と、窓を叩く雨音が、じわじわと神経を削る。この学校を選んだのは自分だ。だが、その選択が本当に正しかったのかは、まだ判じがたい。
数分後、年配の女性が現れた。背筋の通った無駄のない動き。彼女は「柘植」と名乗った。
「有馬くん、ようこそ神楽岡音楽高等学院へ。今日から音楽理論の授業は、私が担当します」
名刺代わりのように差し出された手を、いぶきは無言で握り返した。
「……よろしくお願いします」
形式的な挨拶に続き、寮の規則や練習室の使用法など、淡々とした説明が重ねられた。おおよそ想定の範囲内で、目新しい情報はない。だが、最後のひと言だけが、いぶきの耳に違和感として残った。
「それと……旧講堂には、あまり近づかないように。今は立ち入りを制限しているの」
その言葉に、ミユがわずかに眉をひそめた。
「……例の件、まだ引きずってるんですか」
柘植は小さく頷いた。視線を外しながら、曖昧に言葉を継ぐ。
「まあね。でも、あれを“例の件”で片づけるには、ちょっと厄介すぎたのよ。空気が、まだ落ち着いていないの」
それ以上、何も語らなかった。むしろその“語らなさ”が、教師たちの間でどのような線引きがなされているのかを、はっきりと示していた。
柘植が部屋を出ていくと、ミユがぽつりと漏らした。
「……二週間前。合唱科の一年生が、旧講堂で死んだ」
いぶきは返事をせず、その言葉の響きと、沈んだ声の調子だけを受け止めた。
「オルガンの前で、倒れてたって。先生たちは“事件性なし”って言ってるけど……」
ミユは懐から一枚の新聞の切り抜きを取り出した。学院新聞だった。日付は事件の翌日。大きな見出しが目に入る。
『“深夜零時の血の譜面”は本当に奏でられたのか――学院七不思議との奇妙な符合』
署名は「九条さやか」。記事には、旧講堂の扉に貼られた警察の規制テープのモノクロ写真が添えられていた。
ミユは顔をそむけた。
「このさやか先輩、完全に“あっち側”の人。七不思議を本気で信じてる。新聞部の部長だけど、正直、あたしは苦手でさ」
いぶきは黙って記事に視線を落とした。“七不思議”という響きには、ありがちさと、同時にどこか学校独自の重みが同居していた。特に、音楽に纏わるそれならなおさらだ。
「七不思議って、具体的にどんなのがあるの?」
いぶきの問いに、ミユは指を折って数え始めた。
「午前零時の血の譜面、瞬く肖像画、黙るメトロノーム。あと……旧寮の鏡、笑う石膏像、窓のない部屋、誰もいない第八音楽室。これで七つ」
「どれも、最近出てきた噂?」
「この一年で一気に増えた。しかも多くが、音楽に関係してる」
「鏡は練習室にあったもの。肖像画も、卒業したOBの歌手のだって。偶然って言うには、ちょっと……ね」
ミユはそう言って、切り抜きの写真の中に写ったオルガンを指さした。
「……そういえば、名前はルカって言うんだけど。噂だけどね、死ぬ前に“ペダルが重かった”って、ぽつりと言ってたらしいの」
ミユはそう言いながら、指で机をとんとんと叩いた。
「……まあ、それが何を意味するかなんて、誰にもわからないけど。事務にも不具合票は出てなかったみたい」
短い沈黙が流れた。
いぶきは、すぐそばにあったグランドピアノのカバーにそっと指を置いた。音は鳴らない。鍵盤の蓋が閉じられているからだ。けれども、そこから伝わるわずかな気配――言葉にはできないが、何かが、確かに在る。
「……ねえ、いぶき。あんた、ホラー嫌いだったよね。こういう話、どう思う?」
ミユの問いに、いぶきは数秒間、考えてから口を開いた。
「音には、嘘があると思ってる。だから、まずはそこから。“本当に聴こえたのか”。それを確かめないと、何も始まらない」
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