【第一章】 初音(はつね)
――音が、多すぎる。
校門をくぐった瞬間、そう思った。
風が吹いていた。雨上がりの葉がこすれ、靴が砂利を踏む音がした。どこか遠くからピアノが聴こえる。調律の途中か、ところどころ音が外れている。
有馬いぶきは立ち止まった。
神楽岡音楽高等学院。山の中腹に建てられた、全寮制の音楽学校。都市部からは離れている。
門のそばに石碑がある。「神楽の音は、心に還る」と読めた。古びた標語は雨で滲んでいた。
「……厄介なところに来たな」
誰に向けたでもない声。自分の耳にも届かないほど小さかった。
前髪が濡れている。指でかき上げて視界を開く。
敷地の奥に建物が二つ。白い新校舎。その隣に、旧校舎。
講堂棟は特に古い。尖塔つきの木造。廃教会のような外観だった。
軋む音が聞こえる。風が吹き抜けたのか、誰かが咳き込んだようにも聞こえた。
そのときだった。
旧校舎の奥から、妙な音がした。
ほんの一瞬。だが耳に残る。高いようで重い。調も不明。ピッチがずれていた。まるで、誰かが意図的に音を狂わせたかのようだった。
「……いぶき?」
背後から声がした。
振り返る。制服姿の少女。濡れた髪。濡れた服。
傘はさしていない。
いぶきは確認するように言った。
「ミユか」
志鶴ミユ。二年生。中学までは同じだった。
中学のときからピアノをやっていた。学院に進んだと聞いていたが、会うのは久しぶりだった。
「やっぱり有馬いぶき、本人だったんだ。 さっき、転校生が来るって話を聞いたけど……まさか、あんたとはね」
ミユは目を細めた。少しだけ口元が緩んだ。
「先生が呼んでるでしょ? 来客室、案内してあげる」
彼女が歩き出す。
数歩遅れて、いぶきが続いた。
ピアノの匂いがした。タコのできた指先。一定の歩幅。
彼女もまた、“音で生きてきた人間”なのだと思った。
渡り廊下を渡る。ガラス窓の向こうに、旧講堂。
空気がざわついた。オルガンではない。軋むような音。木材か、鉄か。
ミユが立ち止まる。
「……今の、聴こえた?」
いぶきは頷いた。
「聴こえた。けど、場所までは……」
「だよね。あの音、たまにするのよ。どこかで何かが動いてるみたいに」
それだけ言って、彼女は再び歩き出した。
いぶきは黙って後を追う。
首筋がざらついていた。
気のせいか、音がずっと、背中に張り付いてきている。
――やはり、この学校は、“音に支配されている”。
それだけで、この場所は、常に何かを押し隠しているように思えた。
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